新選組 京都 史跡めぐり

京都 島原 角屋2/京都 ブログガイド

新選組 京都 史跡めぐり

 

新選組 の史跡が

京都にはたくさんあります。

 

新選組の足跡をたどることで、

彼らの生きた幕末という歴史的に

時代が沸騰していた激しさや悲しさを

感じることができます。

 

京都の歴史が好きな一人として、

一度じっくり新選組の史跡を

たどってみたいと思っていました。

 

 

 

新選組最後の洛中屋敷跡

 

新選組 最後の洛中屋敷跡1/京都 ブログガイド

 

慶応三年(1867)6月

新選組が

江戸幕府の直参(直属の軍隊)になったのに合わせて

新屋敷が建設されました。

 

近藤勇の甥で

新選組隊士だった

宮川信吉の書簡によれば、

同年6月15日に入居しています。

 

新選組最後の洛中屋敷跡2/京都 ブログガイド

 

位置については

同書簡に「七条通り下ル」と書かれ、

元新選組二番組組長永倉新八の手記には、

「七条堀川下ル」と書かれています。

 

ただ、

厳密な場所や規模、建物構造などは

信用に足る資料がなく不明です。

 

同年12月の王政復古により

新選組は、わずか半年で

この屋敷を離れることになりました。

 

新選組最後の洛中屋敷跡3/京都 ブログガイド

 

現在は、

京湯元 ハトヤ瑞鳳閣

という旅館になっています。

 

不動堂明王院(まぼろしの屯所)

 

不動堂明王院3/京都 ブログガイド

 

諸説あるようですが、

新選組の「不動堂村の屯所」であるとされています。

 

不動堂明王院1/京都 ブログガイド

 

不動堂明王院は、

弘法大師空海が

嵯峨天皇から東寺を賜ったときに

東寺の鬼門にあたるこの地を選んで

平安京守護のため不動尊を祀ったことが始まりです。

空海が、

この地で見つけた石に 自ら掘り込んだその不動尊を

他の人の目に触れることを避けるため

石棺に納め、

地中の井戸深くに安置しました。

 

伊東甲子太郎ほか数名殉難の地

 

伊東甲子太郎ほか数名殉難の地1/京都 ブログガイド

 

伊東甲子太郎は、

常陸(茨城県)出身で、

学問もでき、

北辰一刀流の名手でもありました。

 

元治元年(1864)に

門弟ら7人と共に 新選組に入隊し、

参謀となりました。

 

しかし、

江戸幕府を敬う近藤勇と 次第に反目するようになり、

慶応三年(1876)三月に

同市15人と共に 新選組を脱退し、

薩摩藩の援助を受け、

高台寺の月真院を屯所とする 御陵衛士となりました。

 

新選組を脱退した上、

盛んに倒幕を説いて廻ったため

新選組から強く恨まれていました。

 

同年11月、

近藤勇らは 伊東甲子太郎を招いて酒宴を開き、

その帰り道、

油小路七条上る辺りで暗殺しました。

 

伊東甲子太郎ほか数名殉難の地2/京都 ブログガイド

 

この知らせを受けた 御陵衛士の仲間が

遺体を引取るために駆けつけましたが、

待伏せしていた新選組と乱闘になり、

元八番隊組長を務めた藤堂平助のほかに、

服部武雄・毛内有之助の3名が討死しました。

 

西本願寺 太鼓楼

 

太鼓楼3/京都 ブログガイド

 

西本願寺ホームページ

 

新選組は、

池田屋騒動の後、

隊士が増え、

壬生の屯所が手狭になってきたため

慶応元年(1865)3月10日

屯所を壬生から本願寺(西本願寺)へ移しました。

北東にあった北集会所と太鼓楼を使用していました。

 

西本願寺太鼓楼/京都 ブログガイド

 

本願寺は、

長州(今の山口県)との深い縁があり、

幕府と対立していた長州藩士は本願寺を頼りにしていました。

 

新選組 は、

本願寺の境内に屯所を置くことで、

長州藩士にも睨みを利かせるという

一石二鳥を狙いました。

 

明治6年(1873)北集会所は、

姫路市の本徳寺に一部移転されたため、

新選組の足跡を知るものは、

太鼓楼のみになりました。

 

ちなみに、

元新選組隊士の島田界魁(しまだかい)は、

明治維新後、

本願寺の守衛を務めていたそうです。

 

京都 島原

 

京都 島原 角屋1/京都 ブログガイド

 

行ってみよう、京都 島原。

でも書きましたが、

新選組は、

壬生の屯所から近かかったこともあり、

また、

幕府と対立していた志士たちを探索するため

島原へはよくやってきました。

 

京都 島原 角屋2/京都 ブログガイド

 

角屋保存会ホームページ

 

角屋には、

新選組の刀傷が残されています。

 

山南敬介の墓他 光縁寺

 

光縁寺 山南敬介 の墓1 / 京都 ブログ ガイド

 

山南敬介 (新選組)の墓 光縁寺

 

光縁寺の門前近くに

新選組の馬小屋があったため、

毎日新選組の隊士たちが

行きかっていました。

 

山南敬介の家紋

「丸に右離れ三つ葉立葵」と

光縁寺の家紋が同じという縁で、

当時の良誉(りょうよ)上人と

昵懇の間柄となりました。

 

光縁寺 山南敬介 の墓3 / 京都 ブログ ガイド

 

この良誉上人は、

葬式を出すことができない

困窮した人たちも

分け隔てなく弔っていたため、

光縁寺の門前には、

度々、むしろに巻かれた亡骸が

放置されていたそうです。

 

光縁寺 山南敬介 の墓6 / 京都 ブログ ガイド

 

山南の紹介で、

新選組で切腹した隊士も

良誉上人に弔われるようになりました。

 

その中には、

山南その人も含まれてしまいました。

 

山南以外にも

光縁寺にお墓のある

新選組関係者は、

藤堂平助、服部武雄、松原忠司他

合わせて28名です。

 

壬生寺

 

京都 壬生寺1/京都 ブログガイド

 

壬生寺ホームページ

 

壬生寺には、

新選組の屯所が置かれ、

境内の池の中州にある壬生塚には

近藤勇の胸像や

芹沢鴨の墓塔があります。

 

池田屋事件があった

祇園祭の宵山の

7月16日には毎年

慰霊供養祭が行われます。

 

京都 壬生寺2/京都 ブログガイド

 

壬生寺は、

正歴二年(991)に創建されました。

本尊の 延命地蔵菩薩(重要文化財)をはじめ、

多数の地蔵菩薩を祀っています。

厄除け・開運の寺としても知られ、

2月の厄除け節分会は、

約900年の歴史をもつ行事です。

また、春と秋に行われる壬生狂言は、

壬生寺の代名詞ともなっています。

 

八木邸

 

京都 八木邸/京都 ブログガイド

 

八木家ホームページ

 

八木家は、

壬生村きっての旧家でかつて

壬生郷士(壬生住人士)の

長老をつとめていました。

また幕末には新選組の近藤勇、

土方歳三らの宿所となり

旧壬生屯所として知られています。

建物は、

長屋門が東に開きその奥に主屋が南面して建ち、

普請願から長屋門が文化元年(1804年)、

主屋は、

文化六年の造営と知られています。

 

壬生地区は、

かつては洛中に近接した農村で、

八木邸は幕末期の遺構として、

また新選組ゆかりの建築として貴重であり、

昭和58年6月1日京都市指定有形文化財に指定されました。

 

池田屋跡(池田屋事件)

 

池田屋跡1/京都 ブログガイド

 

旅籠茶屋 池田屋 はなの舞ホームページ

 

現在は、

そのもの「旅籠茶屋 池田屋 はなの舞」

という居酒屋になっています。

 

過激志士たちが、

「祇園祭の前の風の強い日を狙って御所に火を放ち、

その混乱に乗じて中川宮朝彦親王を幽閉、

一橋慶喜・松平容保らを暗殺し、

孝明天皇を長州へ動座させる(連れ去る)」

という企てを察知した新選組が、

祇園祭の宵山の7月16日、

その過激志士が謀議している池田屋を

急襲しました。

 

最初に池田屋に踏み込んだのは、

近藤勇・沖田総司・永倉新八・藤堂平助の4名で、

あとの隊士は

謀議中の過激志士が逃げないように

池田屋の周りを固めていました。

 

 

新選組は、

宮部鼎蔵など9名を討ち取り、

4名捕縛の戦果を上げました。

 

池田屋跡2/京都 ブログガイド

 

京都を

火の海から救ったということで、

新選組の名声は高まりました。

 

逆に、

池田屋事件で、

吉田稔麿・北添佶摩・宮部鼎蔵などの

逸材を失ったために、

明治維新が1年遅れたといわれています。