MENU
カテゴリー

平安京とはどんな都?場所は今の京都のどこ?なぜ京都に都?

平安京 アイキャッチ / 京都ブログガイド

「 平安京 」とは、一体どんな都だったんでしょうか ?

その規模、平安京があった場所は今の京都のどこだったのか? 今の京都市地図に平安京があった場所を重ねてわかるようにしました。

そして、京都に平安京が置かれた理由とは ?

まず最初に平安京とはどんな都で、場所は今の京都のどこにあったのかをみていきます。

目次

平安京とはどんな都だった?

平安京 模型 / 京都ブログガイド

平安京とは永暦十三年 ( 794 ) に、桓武天皇が長岡京 ( 現在の京都府長岡京市 ) から遷都した都。現在の京都市。

平安京へ遷都されて以来、明治2年 ( 1869 ) 東京へ遷都されるまで、“1000年以上” 京都に都が置かれていました※平清盛による福原遷都 ( 1180 ) の期間を除く

平安京の規模は東西約4.5km、南北約5.2km。中国の長安城を模して建設されました。

平安京の特徴

平安京の特徴としては上の写真の画面下にある羅城門から北へ延びる緑線の朱雀大路を中心として、東側 ( 右側 ) の「左京 ( さきょう )」、西側 ( 左側 ) の「右京 ( うきょう )」に分かれた左右対称の都市。

また、平安京の大内裏 ( だいだいり 上の写真の北方 ※下で説明あり ) の南端を通るオレンジ色の二条大路から北を「上京 ( かみぎょう )」、南を「下京 ( しもぎょう )」といいました。

平安京は条坊制を採用し、今の京都のように東西 ( 条 ) 、南北 ( 坊 ) の通りを碁盤の目のように配置。

平安京の模型の写真を見ると一目瞭然。綺麗な碁盤目ですね ! !

そして、平安京かなり広範囲に造営された都だったことがわかります。

※上の写真は、平安京創生館に展示されている平安京の模型。縮尺は 1/1000スケールで, 10m × 11m。

平安京の場所は今の京都市のどこ?

上のGoogle Mapの青色の線内が平安京のあった場所。

平安京のあった場所に今の京都市中心部がすっぽり入っています。

平安京のあった場所は、今の京都市でいうと北は一条通辺り、南は東寺が面している現在の九条通辺り、東は京都御所の東端辺りを延長したライン、西は嵐電「妙心寺駅」辺りから阪急「西京極駅」の西端付近を結ぶライン。

そして、緑の線内が平安京の大内裏 ( だいだいり ) 。茶色の線内 ( 上の地図を拡大 ) が平安京の内裏。ピンクの線が朱雀大路。

平安京の朱雀大路の南端には羅城門があり、その東西には東寺西寺 ( 廃寺 ) がありました。

京都で10年以上も続いた応仁の乱で灰になってしまい平安京の跡形はほとんど残っていないけど、当時使われていた道は今でも名前を変えて ( 同じ名前もあり ) 現存している場合が多いです。

平安京の朱雀大路だったところは今の千本通が通っています。

※上の地図は、平安京創生館で公開されている「平安京跡イメージマップ」を参考に制作。多少の誤差は生じています。

平安京 内裏 ( だいり ) と大内裏 ( だいだいり )

平安京 内裏と大内裏

平安京の羅城門から北へ延びるメインストリート 朱雀大路の行きつくところが、平安京の大内裏 ( だいだいり ) 。

大内裏とは朱雀門から両側に延びる築地の大垣に囲まれているオレンジ線のエリアで、平安京の中枢部。

内裏 ( だいり 天皇の住まい ) や大極殿・朝堂院などの政庁がありました。

平安京の内裏 ( だいり ) とは紫の線に囲まれたエリアで、天皇が住み、儀式や執務などを行う宮殿のこと。天皇のお住まいですね。

鎌倉時代末期に、平安京の内裏が現在の京都御所がある場所へ移るまで、政治の中心は千本丸太町の交差点辺り ( 今の京都御所の西約1.5km ) にありました。

なぜ、京都に平安京が置かれた?

平安京遷都の物語は平城京から始まる。

平安京へ遷都したのは奈良の平城京で即位した桓武天皇 ( かんむてんのう ) 。

でも、平城京から京都の平安京へ遷都したわけじゃありません。

私も平城京から平安京へ遷都されたんだと思っていました。

延暦3年 ( 784 ) に、平城京から長岡京 ( 京都府長岡京市 ) へ遷都し、たった10年後の延暦13年 ( 794 ) 、平安京へ遷都されました。

まずは、なぜ平城京から長岡京へ遷都されたのか ?

まかな理由は2つあると考えられています。

なぜ平城京から長岡京へ遷都されたのか

1. 新しい都で桓武天皇 ( かんむてんのう ) 自らの系統を続けたい

ひとつは、新しい都で自分と同じ血筋を続けたい。

奈良の平城京で新しく即位した桓武天皇 ( かんむてんのう ) は自分の父親 ( 光仁天皇 ) の系統 ( 天智天皇の系統 ) を新しい都の長岡京で続けていこうと考えたということ。

実は、奈良の平城京では別の系統 ( 天武天皇の系統 ) が続いていました。別の系統の天皇が治めていた平城京を離れたいと考えたのでしょう。

違う血筋が続いていた平城京は、めっちゃ嫌だったんでしょうね。

2. しがらみを断ちたい

もう一つには、奈良の仏教勢力との決別。

奈良の平城京では災害や戦乱が度々起こったことで、時の聖武天皇 ( しょうむてんのう 天武天皇系:桓武天皇とは別の系統 ) は仏教の教えも借りて、世を治めていこうとしました。

ただ、仏教勢力は自分たちの力を貸すだけではなく、次第に政治にも口を出すようになってきたため、それらと縁を切るためにも、桓武天皇は長岡京への遷都が必要と考えたよう。

そして、784年に、京都市の南西にある長岡京へ都が移されました。

会社でも代替わりしたら、前社長の代からの影響力があって、扱いづらい人間は嫌でしょうね (笑)

でも、本社をどこか別の場所に移すのと同じことだから、かなり思い切った行動。

ちなみに、後の平安京への遷都の際にも、仏教勢力に力を持たせないため、桓武天皇は官制寺院である東寺と西寺を例外として平安京の中に新しく寺を建立することを禁じました。

ほんまに、嫌やったんでしょうね (笑)

じゃあ、なぜ長岡京から平安京へ遷都されたのか

新しい都で自らの系統を続けたい!!仏教勢力と決別したい!!

そんな強い気持ちで、強引に平城京から長岡京へ遷都。 

ところが、たった10年ほどで平安京へ再び遷都。

な、な、な、なんで?

1. 祟りを恐れた?!

桓武天皇は長岡京の造営責任者に「藤原種継 ( ふじわらの たねつぐ )」という人物を選びました。

しかし、種継は遷都に反対する何者かによって暗殺されてしまいます。

そして、犯人の黒幕として疑われたのが長岡京遷都を反対していた勢力に利用されたかもしれない弟の早良親王 ( さわらしんのう ) 。

桓武天皇は早良親王を幽閉し、淡路島へ左遷するよう命じます。 

身に覚えのない早良親王は飲食を絶って無実を訴えましたが、自分の無実をわかってもらえないまま、非業の死を遂げてしまいます。

すると、早良親王が亡くなった後で、桓武天皇の周りでたくさんの不幸等が続くことに。

人々は口々に、無実を訴え亡くなった”早良親王の祟り”だと恐れるようになりました。

ただ、祟りだけを恐れて、移ったばかりの長岡京から遷都をしたのかは疑問だけど、昔の人は現代人の想像も及ばないくらい迷信等を信じていたようだから、平安京遷都の理由のうちの一つだったのかも。

実際、平安京へ遷都してから、桓武天皇は 「崇道神社 ( すどうじんじゃ )」という早良親王の祟りを鎮めるための神社を創建しています。祟りが平安京遷都の理由じゃなかったら、わざわざ神社を創建しないでしょうね。

2. 洪水に嫌気 ? !

もう一つの理由は、洪水。

現在の京都府長岡京市辺りをみてもわかるけど、桂川・宇治川・木津川の三河川が合流して淀川になっている辺りに位置しています。

昔は今の地図と流れもそれぞれ違っていたかも。水には困らないけど、雨が続くと水が溢れます。実際に、2度の洪水に見舞われたそう。

そのため、都の造営も順調に進まず、桓武天皇は再び遷都を考えたともいわれています。

京都が都に選ばれた理由とは?

祟りへの恐れや洪水で、長岡京での都造りが順調に進まないことに頭を悩ませていた桓武天皇。

ここで登場してくるのが「和気清麻呂 ( わけのきよまろ )」という人物。平安京遷都のもう一人の主人公。

“早良親王の祟り”と”洪水”に悩まされていた桓武天皇に、和気清麻呂は葛野 ( かどの 今の京都市 ) への遷都を進言。

土地も肥沃で交通の便も良いことが、京都に平安京が造られた理由です。

葛野 ( 今の京都市 ) を桓武天皇も気に入りました。

そして、延暦13年 ( 794 ) 、ついに「平安京への遷都」が実現!!!!!

以後、千年以上の長きにわったって、京都が都であり続けました。感謝、感謝。

和気清麻呂が現在の平安京への遷都を進言しなかったら、今の京都は全く違っていたかも

四神相応 ( しじんそうおう )

京都が都に選ばれたのは、中国から伝わった※風水の「四神相応 ( しじんそうおう )」という考え方によるという説もあります。

※物の位置で気の流れを制御する思想で、東西南北に神が存在すると繁栄するという考え方。

北は玄武 ( げんぶ ) 、東は青竜 ( せいりゅう ) 、南は朱雀 ( すざく ) 、西は白虎 ( びゃっこ ) 。

京都 ( 平安京 ) は、この考え方で行くと地理的にぴったりの場所。 

平安京は北に船岡山、南に※巨椋池、東に鴨川、西に山陰道。※現在はありません。

ただし、長岡京も「四神相応」で選ばれた土地だったでしょうに、結局うまくいきませんでした。

やっぱり、祟られたのかも。

平安京 アクセス

平安京の中心部 内裏・大内裏 ( 千本丸太町 ) へのアクセスは下記。

・京都市バス「千本丸太町」バス停から徒歩約1分
・京都市営地下鉄東西線「二条駅」1番出入口から徒歩約9分
・JR嵯峨野山陰線「二条駅」東口から徒歩約10分

詳しいアクセスを見る

市バス「千本丸太町」バス停へ

京都駅前バスターミナル ( JR中央口前 ) から

JR京都駅の中央口 ( 京都タワー側 ) の前にあるのが, 京都駅前バスターミナル ( pdf )。

A3乗場6号系統 佛教大学・玄琢 行き
206号系統 大徳寺・北大路バスターミナル 行き
下車千本丸太町」バス停下車, 徒歩約1分で『平安京の中心部 大極殿跡』

四条河原町から

四条河原町バス停 ( pdf ) は, A~Hの合計8か所あります。 行先によって乗車する停留所は違います。

A乗場10号系統 北野天満宮・御室仁和寺・山越 行き
15号系統 円町・立命館大学 行き
D乗場46号系統 佛教大学・今宮神社・上賀茂神社・西賀茂車庫 行き
201号系統 四条大宮・千本今出川 行き
下車千本丸太町」バス停下車, 徒歩約1分で『平安京の中心部 大極殿跡』

※ 京都市バスの掲載内容は経年と共に変更される可能性もありますので京都市バス時刻表でご確認ください。万が一、間違っていたとしても責任は負いかねます。予めご了承ください。

地下鉄「二条駅」へ

四条河原町から

阪急京都線「京都河原町駅」から [大阪梅田 行き] に乗車、1つ目の「烏丸駅」下車
⇒地下鉄烏丸線へ乗換、地下鉄「四条駅」で [国際会館 行き] に乗車
⇒1つ目の「烏丸御池駅」下車、同駅で地下鉄東西線へ乗換
⇒ [太秦天神川 行き] に乗車、「二条駅」下車、1番出入口から徒歩約9分で『平安京の中心部 大極殿跡』。

四条烏丸から

地下鉄「四条駅」で [国際会館 行き] に乗車
⇒1つ目の「烏丸御池駅」下車、同駅で地下鉄東西線へ乗換
⇒ [太秦天神川 行き] に乗車、「二条駅」下車、1番出入口から徒歩約9分で『平安京の中心部 大極殿跡』。

JR「二条駅」へ

JR「京都駅」から

JR「京都駅」32・33番線で嵯峨野 ( 山陰 ) 線に乗車。「二条駅」下車後、東口から徒歩約10分で『平安京の中心部 大極殿跡』。

平安京の中心部 千本丸太町近くのラーメン屋

近くのラーメン屋を見る

京都千丸しゃかりき

平安京 大極殿 ( 天皇が賀正・即位などの国家儀式を行なったところ ) があった千本丸太町交差点から西へすぐのところにあるのが「京都千丸しゃかりき」。

「豚濃魚介らーめん ( とんこくぎょかい )」は濃厚でコッテリ。コッテリ魚介好きにはめっちゃオススメです。

京都千丸しゃかりき ( 千本丸太町から徒歩約1分 )

醍ぶ ( だいぶ )

千本丸太町交差点の南西角すぐにあるのが「醍ぶ」。

見た目はコトコト弱火で取ったであろう鶏ガラベースの透き通った清湯スープ。口当たりはアッサリしていてまろやか。メニューの説明の通り貝の旨味が口の中にふんわり拡がります。

平安京 まとめ

平安京とは、今の京都を形作ってきた都。

京都が碁盤の目のような町並みになっているのも、条坊制で形成された平安京の名残。

とにかく、平安京は千年の礎を築いた都ですね。

そして、大好きな京都を楽しめるのも、桓武天皇が京都の平安京へ遷都してくれたお陰 (^^)

感謝、感謝。

今では平安京の跡形も残っていないけど、千本丸太町周辺へ行けば、平安京当時にあった建物跡の石碑などが往時を偲ばせてくれます。

あわせて読みたい
平安京を観光する。住宅街にひっそり佇む平安京跡 「 平安京 観光 」 京都に都が移ってから1200年以上経っているけど、当時はどんな感じだったんでしょうか ? 平安京へ遷都された当時の都の中心は「千本丸太町辺り」。今...

コメント

コメントする

コメントは日本語で入力してください。(スパム対策)

CAPTCHA

目次