「 崇道神社 ( すどうじんじゃ ) 」
ちょうど高野川が東へ流れを変える辺り。 大原へと向かう国道367号線 ( 敦賀街道 )を進むと, 目指す崇道神社の長い参道が近づいてきます。
車の往来が激しい国道から参道へと足を踏み入れると, 周りの木々から発せられる心地よいマイナスイオンと鳥のさえずり。 参道を進むにつれて厳かな雰囲気が満ちてきます。
崇道神社について
長い参道の先にに見えてくるのは, 山の木々に抱かれて, ひっそりと佇む崇道神社の本殿。
崇道神社のハッキリとした創建についてはわからないけど, 平安京 遷都後にできたと考えられています。
崇道神社の祭神は, 平安京へ遷都した桓武天皇 ( かんむてんのう ) の弟 早良親王 ( さわらしんのう ) 。
桓武天皇は, 平安京の前の都 長岡京 ( 京都府長岡京市 ) で, この弟の祟りに悩まされることになります。 また, 早良親王の祟りがなければ, 京都へ都が移って来なかったかもしれません。
なぜ早良親王が祭神になっているのかを説明するには, まずは, どうして桓武天皇が奈良の平城京から長岡京へ遷都したのかを話しておきましょう。
なんで奈良の平城京から長岡京へ遷都
奈良の平城京で即位した桓武天皇は, 平城京から長岡京へ遷都を実行しようとしていました。 なぜかというと,
自らの系統を続けたい
ひとつは, 新しい都 長岡京で自分と同じ血筋の天皇を続けたい。
奈良の平城京で新しく即位した桓武 ( かんむ ) 天皇は, 自分の父親 ( 光仁天皇 ) の系統 ( 天智天皇の系統 ) を新しい都の長岡京で続けていこうと考えたということ。
実は, 平城京へ移ってからは, 別の系統 ( 天武天皇の系統 ) が続いていました。 別の系統の天皇が治めていた平城京は嫌だったんでしょうね。
しがらみを断ちたい
もう一つは, 奈良の仏教勢力との決別。
奈良の平城京では災害や戦乱が度々起こったことで, 時の聖武天皇 ( しょうむてんのう ) は, ( 天武天皇系 : 桓武天皇とは別の系統 ) 仏教の教えも借りて, 世を治めていこうとしました。
ただ, 仏教勢力は自分たちの力を貸すだけではなく, 次第に政治にも口を出すようになってきたため, それらと縁を切るためにも, 桓武天皇は長岡京への遷都が必要と考えたよう。 そして, 784年に, 京都市の南西にある長岡京へ都が移されました。
※ 後の平安京の遷都の際にも, 仏教勢力に力を持たせないため, 桓武天皇は, 東寺と西寺を例外として, 平安京の中に新しく寺を建立することを禁じました。
無実の罪?
桓武天皇は, 長岡京の造営責任者に「 藤原種継 ( ふじわらの たねつぐ ) 」という人物を選びました。 しかし, 遷都への反対も当然根強く, あろうことか, 種継は遷都に反対する何者かによって暗殺されてしまいます。
そして, 犯人の黒幕として疑われたのが, 長岡京遷都を反対していた勢力に利用されたかもしれない弟の早良親王。
桓武天皇は, 早良親王を幽閉し, 淡路島へ左遷するよう命じます。 早良親王は, 飲食を絶って無実を訴えましたが, 淡路島へ送られる途中で自分の無実をわかってもらえないまま, 非業の死を遂げてしまいます。
すると, 早良親王が亡くなった後で, 桓武天皇の周りで, たくさんの不幸が続くことに。 人々は口々に, 無実を訴え亡くなった ” 早良親王の祟り ” だと恐れるようになりました。
桓武天皇も次第に ” 祟り ” を無視できないようになり, 遷都したばかりの長岡京から10年足らずで, 京都の平安京へ再び遷都を実行したと考えられています。
そして, 平安京遷都後に, 早良親王の祟りを鎮めるために, 崇道神社を創建したのかもしれません。
平安京への遷都 もう一つの理由
もう一つの理由は, 洪水。
現在の京都府長岡京市辺りをみてもわかるけど, 桂川 ・ 宇治川 ・ 木津川の三河川が合流して淀川になっている辺りに位置しています。 昔は今の地図と流れもそれぞれ違っていたかも。 水には困らないけど, 雨が続くと水が溢れます。
実際に, 2度の洪水で長岡京の整備が進まなかったことが, 平安京遷都への大きな理由になったと考えられています。
小野毛人 ( みし )
天武年間の官僚だった小野毛人は, 最初の遣隋使 小野妹子 ( いもこ ) の子供で, 天武六年 ( 677 ) に没したとされています。
慶長十八年 ( 1613 ) , 崇道神社の境内の上高野一体を見渡す山腹の墓から鋳銅製の墓誌 ( ぼし : お墓の横に建てられる石碑 ) が発見され, この墓が小野毛人を埋葬したことが明らかになりました。
裏側に「 小野毛人朝臣 ( あそん ) 之墓 」と刻まれています。
大正3年 ( 1914 ) , 墓誌は国宝に指定され, 現在, 京都国立博物館に保管されています。
私は行かなかったけど, 境内から140m登ったところに小野毛人 ( みし ) のお墓があるよう。
大正3年 ( 1914 ) に調査された墓は石板で造られ, 長さは約2.5m, 幅及び高さは約1m。 この墓は, 京都市内に残る奈良時代前期の数少ない貴重な遺跡のため, 昭和59年6月1日に京都市指定史跡に指定されました。
境内には, 「 小野神社 」もあります。
崇道神社 アクセス
叡山電車「 三宅八幡駅 ( みやけはちまんえき ) 」から崇道神社の一の鳥居まで徒歩約8分。 京都バス「 上橋 ( かんばし ) 」バス停下車徒歩約2分。
崇道神社 まとめ
本殿 ・ 参道も木々に囲まれ, 聞こえるのは鳥の鳴き声と風の音だけ。 一歩進むごとに厳かな空気が満ちてきます。
実際, 桓武天皇が早良親王 ( さわらしんのう ) の祟りを恐れて, 移ったばかりの長岡京から平安京へ遷都をしたのかは疑問だけど, 昔の人は現代人の想像も及ばないくらい迷信等を信じていたようだから, 遷都の理由のうちの一つだったのかも。
そして, 早良親王を祀る神社を創ったということは, やはり強く祟りを意識はしていたのでしょう。
平安京の鬼門である北東の方角に崇道神社を創建して, 早良親王の “祟り” を鎮め, 「 崇める 」ことに変えることで, 都を守護してもらおうと考えたのかもしれません。 北野天満宮の菅原道真と似ていますね。
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