応仁の乱 なぜ起こってしまったのか?
「 応仁の乱 」
応仁の乱の史跡めぐりはしましたが、なんで起こってしまったのか、 よくわからなかったので、 自分なりにまとめてみました。
応仁の乱が起こってしまった ” 3つ ” の理由
1. 将軍後嗣(こうし)問題
2. 畠山氏の後継問題
3. 細川勝元( ほそかわかつもと )と山名宗全( やまなそうぜん )の対立
将軍家の後嗣問題と畠山氏の後継問題は似ています。
共に子供がなかったため弟に職を譲る約束をしておきながら、 その約束の後で子供ができたために、 実の息子に継がせようとしたことから、 話がこじれてしまいました。
応仁の乱勃発の不幸は、 1 と 2 の後継争いがほぼ同時期に、 起こってしまったこと。
そして、 更に問題をややこしくしたのが、 後継争いの当事者達が、 味方になってもらうために、 それぞれ当時の政権の実力者 細川勝元と山名宗全を頼ったこと。 そのことで、 良好だった勝元と宗全の仲も悪くなりました。
大まかには、 この3つが絡み合って、 応仁の乱が起こってしまいました。
1. 将軍後嗣(こうし)問題
本社の社長に跡取りの子供がなく、 弟の専務に次期社長を譲ると約束。 その後、 社長に子供ができて、 母親が中心となって、 その子に社長を継がせたくなった。 話がこじれますよね。これと似ています。
金閣寺を建立し栄華を極めた足利義満の孫である第八代将軍「足利義政」と、 その正室の日野富子との間には男児がいませんでした。
そのため、 義政は弟の義視 ( よしみ ) に将軍職を譲る約束をします。 加えて、 もし自分に男児ができたとしてもその約束は効力を持つということも誓っていました。
しかし、 その後に日野富子が男児 ( 義尚 よしひさ ) を出産。
待望の男児ができた日野富子は、 当然、 自分の子供を将軍にさせたいと考えます。 義政は弟 義視との約束があるため、 まず義視に将軍職を譲り、 その後、 息子の義尚に将軍を継がせるつもりだったよう。
妻の日野富子からすると、 夫の義政がそう考えていたとしても、次期将軍を約束した弟の義視が間違いなく息子の義尚に将軍を譲るかどうか不安だったのでしょう。 息子 義尚を将軍にするために接近したのが、前述の「 山名宗全 」
一方、 次期将軍の約束がある弟の義視は、「 細川勝元 」の力添えを得ていました。
ここで、 将軍家の跡目争いに加えて、「 細川勝元 」対「 山名宗全 」という幕府内の政治勢力争いも加わります。
2. 畠山氏の後継問題
本社の社長後継争いに加えて、 支社のトップでも同じように後継争いが発生。
管領( 将軍に次ぐ権力ポスト )を輩出する家柄の畠山家。当主 持国( もちくに )には男子がなく、 弟の持富へ家督を譲ることに決めていました。
しかしその後、 男子の義就( よしなり )が生れたてことで、 応仁の乱勃発の ” きっかけ ” ができてしまいます。
義就が正室の子供ではないので、 弟の持富の子供の政長( まさなが )に、 畠山家を継がせるべきとの考えもありました。 結局、 持国の死後、 畠山家を継いだのは当主 持国の子 義就で、 将軍 足利義政も支持していました。
しかし大和国で起こった騒乱の処理に失敗した義就は信頼を失い、 持国の弟 持富の子 政長が、 義就に代わって管領に就任することに。 管領の職を解かれた義就は不満をかかえることとなりました。
3. 細川勝元と山名宗全の対立
細川勝元( ほそかわかつもと )

上杉本洛中洛外図屏風に描かれている細川氏の邸宅「 細川殿 」
細川勝元( 東軍 )は、 室町幕府の3つある管領 ( かんれい ) 家のひとつ細川氏出身で、 政治的にも、 また和歌なども得意で文化的にも優れていた人物。
管領とは将軍に次ぐ権力ポストで、 室町幕府を開いた足利氏の一族である斯波 ( しば ) 氏、 細川氏、 畠山氏の3氏が交代で就任。 それ以外の家柄から管領になることは出来ません。
実は、 管領 細川勝元も当初は、 山名宗全の娘を嫁にもらったり、 跡取りがいなかったために宗全の子供を養子に迎えたりで、 宗全とは仲が良かったのです。
山名宗全( やまなそうぜん )

山名宋全邸跡( 京都市上京区 )
山名宗全( 西軍 )は、 武将として優れていましたが、 政治的な駆け引きは得意ではなく、 政略結婚等で幕府内で勢力を伸ばしていきました。 娘を細川勝元に嫁がせ、 子供を細川勝元の養子にしています。
※ 四職 ( ししき ) のひとつ出身で、 但馬 ( 現在の兵庫県北部 )、 備後 ( 現在の広島県東部 )、 安芸 ( 現在の広島県 )、 伊賀 ( 現在の三重県伊賀市 )、 播磨 ( 現在の姫路市 ) の守護大名。
※ 室町幕府の軍事と警察権などを司る。 守護大名の赤松氏、 一色氏、 京極氏、 山名氏の4氏が四職といわれる。
四職は、 管領のひとつ下の権力グループ。 このグループは、 室町幕府の決まりで、 室町幕府を開いた足利氏の一族ではありませんから、 管領になることは出来ません。
最初は仲が良かったのに。
最初は仲が良かった細川勝元と山名宗全ですが、 「 将軍後嗣問題 」や「 畠山氏の後継問題 」等で利害がぶつかるようになってきます。
加えて、宗全の息子を養子に貰っていた細川勝元ですが、 これまた後に実子ができたために、 養子にもらっていた宗全の息子を跡取からはずし、 寺へ入れてしまいます。 宗全としては面白くありません。
また隣国 赤松家の再興を巡っても、 細川勝元と対立します。
そして決定的な対立にいたったのは、 畠山家の家督相続問題。
畠山義就( よしなり 当主 畠山持国の子 )は山名宗全を頼り、畠山政長( まさなが 当主 畠山持国の弟の子 )は細川勝元を頼ります。
応仁の乱勃発

大和国で起こった騒乱処理に失敗し、管領職を外された畠山義就( よしなり 当主 畠山持国の子 )は、その決定に不満を持っていました。義就は山名宗全を味方につけ、 政長( まさなが 当主 畠山持国の弟の子 )の管領職の辞任を求めて軍勢を率いて京都へ来ます。 細川勝元の協力を得ている政長も管領職を辞任するつもりは全くありませんでした。
そして、ついに文正二年( 1467 )正月十八日朝、御霊の森( 御霊神社 境内 )で武力衝突しました。
約二千の兵で布陣している畠山政長に、畠山義就が兵約三千で攻撃を仕掛け、 終日激しい戦闘が続きましたが、義就が政長を退却させました。
これが、 応仁の乱最初の合戦。
これから11年間にも及ぶ長い戦乱が始まることになってしまいました。
その年の三月に年号が「 応仁 」に改められ、 細川(東軍) ・ 山名(西軍)の両陣営はそれぞれに味方を集め、 五月から京都市上京区辺りを中心 にして、 東西両軍の全面戦争に突入してしまいました。
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