応仁の乱 史跡めぐり
「 応仁の乱 史跡めぐり 」
ちょうど 京都市考古資料館 前の今出川大宮のバス停後ろに鎮座しています。
「 ぬりかべか ! ! 」 ってつっこみました( 笑 )

2017年で、 550年。
応仁の乱が発生した応仁元年( 1467年 )から、 今年2017年で550年がたちます。
応仁の乱について詳しく書いた本が、 発行部数30万部を超えるベストセラーにもなっています。 ということで、 応仁の乱史跡めぐりへ行ってきました。
日本史で習うので、 ” 応仁の乱 “って、 私も含めてみんな知っていますけど、憶えているのは、
「 戦国時代のきっかけになった。 」 「 下剋上が始まった。 」
後、 登場人物としては、 細川勝元と山名宗全くらいしか知りませんでした。
私も今回、 少し予習していきましたが 、、、、
簡単に言えば、 それでも複雑だと思うけど ・ ・ ・ ・ 。
室町幕府管領家の畠山氏の跡目争いをきっかけとして、 斯波氏の家督争い、 細川勝元と山名宗全の権力争い、 そして、 室町幕府8代将軍足利義政の継嗣争いなどが複雑に絡み合い、 ついには2つの勢力( 西軍と東軍 )に分かれ武力衝突してしまい、 京都全域を巻き込んだ騒乱に発展してしまいました。
詳しく知りたい方は、 『 応仁の乱 ~ 戦国時代を生んだ大乱 ~ 』 呉座勇一を読んでください。
” 西陣 ” の地名
2つの勢力の一方の山名宗全の勢力が、 もう一方の細川勝元の勢力と戦うため、 その軍勢の陣地を造ったことと、 堀川通より西に位置していることから名づけられました。そのため、 山名宗全の勢力は西軍、 細川勝元の勢力は東軍と呼ばれるようになりました。
「 じゃあ、 西陣があるなら、 なぜ ” 東陣 ” って地名ががないの ? 」
そうですよね。もちろん、東陣( ひがしじん )という地名もあったようですが、 歴史の流れの中で消えていってしまったようです。
個人的な考えですが ・ ・ ・ ・ 、
” 西陣 ” の方は応仁の乱後、 戦乱を避けていた織物商たちが帰ってきて、 商いを通じて西陣が発展していったからではないでしょうか? ” 西陣織 ” という誰でもが知っている単語が今に残っているように。 ちなみに、 西陣の大宮今出川下ル辺りは 「 千両ヶ辻 」 と呼ばれていました。 一日千両に値する生糸 ・ 織物を商ったことから名づけられたそうです。
一方で、 ” 東陣 ” は西陣で盛んだった生糸 ・ 織物のような発展した産業がなかったために、 東陣という地名が時の流れとともに消えていったのではないでしょうか?
ちなみに、” 西陣 ” っていう地名はありますが、 地図には載っていません。 諸説ありますが、 だいたい北は鞍馬口通、 南は中立売通、 東は堀川通、 西は千本通に囲まれたエリアです。
” 西陣 “めぐり
山名宗全の邸宅跡

住宅と住宅の間に佇んでいます。 説明文はこちら。

ここから約50M東へ行ったところにも石碑があります。
ちなみに、 ここの町名は「 山名町 」

下の地図は、 位置関係がわかりやすいです。

地図上の南北の通り「 堀川通 」を境にして、 西が西陣( 西軍 )、東が東陣( 東軍 )。
応仁の乱激戦地 百々橋の合戦跡

公園なのか、 なんなのか、 よくわかりませんが、
ちゃんと整備されてます。 写真右に映っている小川通には、 裏千家や表千家の会館や、 茶器を売るお店が軒を連ねています。
説明文にもありますが、 応仁の乱では、 東西激戦の地だったようです。

当時は、 ここに小川が流れていたよう。

実際の基礎になった石が、 当時の面影を偲ばせてくれます。

” 東陣 “めぐり
先に、 ” 東陣 “の地名はなくなってしまった。 と書きましたが、 細川勝元の東軍勢はどの辺りに軍勢を置いたのでしょうか?
東陣は、 だいたい北は鞍馬口通、 南は一条通、 東は烏丸通、 西は小川通のエリアだったと思われます。
花の御所
その東陣にあったのが、 花の御所( 足利将軍家の邸宅の通称 )。
京都御所の北西にあり、 今の大聖寺の辺りになります。
当時の花の御所は、 北側を上立売通、 南側を今出川通、 東側を烏丸通、 西側を室町通に囲まれたエリアでした。 細川勝元の東軍勢は、 この花の御所を拠点としていました。
大聖寺の門

大聖寺境内。
奥に映っているレンガ色の建物は、 同志社大学。

花の御所石碑

応仁の乱史跡めぐりをしてみて
非常にコンパクト。
史跡があるのが、 南北の通りの大宮通から烏丸通の間なので、 徒歩でも十分に廻れる範囲です。
思ったのは、 こんなにも狭い範囲で、 よく十一年も戦いをやっていたなー ! !
ということです。
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