西寺は、なぜなくなったのか?でも東寺はちゃんと残ってる。
「 西寺 ( さいじ ) 」
東寺は五重塔もあり, 京都のシンボルの内の一つだけど, 東寺があるなら「 西寺 」は ? っていうことになりますよね。
もちろん, 平安京へ遷都された当時は, 西寺もちゃんとありました。
では, なぜ西寺はなくなってしまったんでしょうか?
西寺 なぜ無くなった ? !
創建当時の西寺は, 敷地は東西約250M, 南北510Mにも及ぶ広大なお寺。
南半分に, 五重塔や金堂をはじめとした主要建築物が並び, 北半分には寺の実務に関わる施設があったと考えられています。
- 西寺のあった周辺の水はけが悪く, 住むのに適していなかったことで住民がいなくなった
- 国からの援助なくなってしまった
本当に理由はそれだけか ?
なぜ西寺はなくなって, 東寺は残ったのか ?
住む人がいなくなったり, 国からの援助が無くなったからということだけど, それだけではない気がします。
西寺から東寺までは直線距離で約700m。
それほど離れていないから, 東寺付近も水はけに関しては似たようなもんだったと思います。
そして, 国からの援助にしても東寺も国営寺院としては西寺と条件は同じ。
だったら何が原因なのか ?
守敏 ( しゅびん ) と空海 ( くうかい ) の違いも一因なのでは ?
とも考えられています。
守敏は, 平安時代前期の僧。 出自については不詳である。 守敏僧都 ( しゅびんそうず ) と称される。 大和国石淵寺の勤操らに三論・法相を学び、真言密教にも通じた。 823年 ( 弘仁14年 ) 嵯峨天皇から空海に東寺が, 守敏に西寺が与えられたが, 空海と守敏とは何事にも対立していたとされる。
Wikkipedia
弘仁十四年 ( 823 ) , 嵯峨天皇から守敏に西寺が, 空海に東寺が与えられました。
守敏と空海とはライバル関係。
弘仁十五年 ( 824 ) の干ばつの時, 今の二条城の南にある神泉苑で雨乞いの儀式が行われた際, 守敏と空海は雨を降らせるための法会で対決しました。
結果, 守敏は雨を降らせることができず, 降らせることができた空海に敗れ去りました。
このことが, 空海の名声を一気に高め, 相対的に守敏の人気は落ちてしまいました。
西寺がなくなったのは, トップの人気が少なからず影響したのではないかと思います。
入門希望の僧も雨乞いの対決で勝った空海の元で修業したいと考えるでしょうしね。
守敏の名前が忘れ去られてしまったように, 西寺も衰退しやがてなくなってしまったのではないでしょうか。
西寺 今はひっそり佇む公園のシンボル
羅城門跡から西へ徒歩約7分, 羅城門跡を中心として, 東寺とちょうど対象の位置に唐橋西寺公園があります。
この辺りに「 西寺 」があったそう。
ただ, 今は西寺自体はなく, 公園の中の小高い山の上に「 史跡西寺址 」の碑がひっそりと建っているのみ。
桓武天皇は寺の建立を禁止 ! ?
桓武天皇は平安京遷都に際して, 貴族などが私的に新しく寺を建立することを禁じました。
そのため, 平安京の内部にはお寺が建設されませんでしたが, 例外が「 西寺 」と「 東寺 」。
この2つのお寺は国営の寺院として, 平安京の入口にある正門 羅城門の東西に位置する右京と左京を護るために建立されたといわれています。
影響力が強くなった仏教勢力
なぜ寺の建立を禁止したかというと, 奈良の平城京でのことが関係しています。
桓武天皇は, 平城京で第50代天皇として即位しました。
第45代の聖武天皇の頃, 災害 ・ 疫病や戦乱が度々起こったことで, 仏教を深く信仰していた時の聖武天皇は仏教の教えも借りて世を納めていこうとしました。
その結果として, 東大寺や興福寺などの仏教勢力が政治にも口を出すようになってきました。
それらと縁を切るためにも, 桓武天皇は遷都が必要と考えたようです。
そして, 784年に長岡京, 794年に平安京へ都が移されました。
新しい都では, 仏教勢力に力を持たさないために, 平安京の中に国営寺院の「 西寺 」と「 東寺 」以外には寺を建立することが禁じられました。
西寺
西寺址のある唐橋西寺公園から北西に徒歩約2分のところに, 正真正銘の「 西寺 」があります。
西寺の後継寺院だそう。
浄土宗西山禅林寺派の寺院です。
※京都市左京区の禅林寺 ( 永観堂 ) を総本山とする浄土宗の一派。
西寺址と羅城門の再建計画
2020年10月 「 明日の京都 文化遺産プラットフォーム 」 という団体が, 羅城門の再建を目指す 「 よみがえる羅城門 」 プロジェクトの基本構想を公表しました。
新たに実行委員会を設置し, 再建する場所や建設費用 ・ 期間など具体的な事業内容を決める必要があるけど, 目標としては原寸大の木造伝統工法で再建したいとのこと。
「再建する場所」とあるけど, 羅城門を再建するのに, 元あった位置からとんでもなく遠くに造るわけにはいかないでしょう。
となれば, 個人的には羅城門跡からも近い「西寺址」しかないと思います。
現在はただっ広いグラウンドに小山があるだけ。 北端に鎌達稲荷神社があるけど。
関係者も具体的な場所名はあげて無いけど, みんな心の中では,「西寺址」しかない。 と思っているでしょう。
付近の住民への丁寧な説明が不可欠でしょうね。
「 観光公害になる ! 」, 「 子供の遊び場が無くなる ! 」 っていう人もいるだろうし。
近くの観光スポット
羅城門跡
対をなす西寺と東寺の中心にあった平安京の入口にあたる正門が「 羅城門 」。 幅約50メートル, 高さ24メートル, 奥行き21メートルと推定。 弘仁七年 ( 816 ) に大風により倒壊し, その後再建されましたが, 天元三年 ( 980 ) の暴風雨で再び倒壊した後は再建されることがありませんでした。 「西寺址」のある唐橋西寺公園から羅城門跡へは, 徒歩約7分。
東寺
西寺と対をなし, 平安京の表玄関にあった官制のお寺が「 東寺 」。 桓武天皇は, 寺の力が強く, 政治に口出しすることを嫌って奈良の平城京を後にしました。 そのため, 平安京の中にあるお寺は, 東寺と西寺だけでした。 「西寺址」のある唐橋西寺公園から東寺へは, 徒歩約12分。
西寺址 アクセス
・ 京都市バス「 九条七本松 」バス停から徒歩約4分。
九条七本松の交差点を北へ。 3ブロック目にある唐橋小学校の北にある唐橋西寺公園の小山の上に西寺址の石碑が建っています。
・ 近鉄 「 東寺駅 」 から徒歩約18分。
改札を出て右折。 目の前の九条通 ( 東西の通 ) の北側歩道を西へ向かいます。 大宮通 ( 南北の通 ) を渡ると右手には東寺。 そのまま真直ぐ東寺と壬生川通 ( 南北の通 ) を通り過ぎて, さらに九条通を西進 ( 途中に羅城門跡があり ) 。 九条七本松の交差点を右折 ( 北へ ) 。 3ブロック目にある唐橋小学校の北にある唐橋西寺公園の小山の上に西寺址の石碑が建っています。
・ JR西大路駅から徒歩約6分。
西寺 まとめ
今はグラウンドと小山の上に石碑が建つだけの「西寺址」。
もし羅城門が「西寺址」に再建出来れば, 東寺と合わせて観光の目玉になるでしょう。
そして, 平安京にはかつて東寺と対になった西寺があったということもアピールできるし。
実際, 私もしらなかった。
再び西寺にもスポットライトを当てて欲しいですね。
西寺址 所在地 | 京都市南区唐橋西寺町唐橋西寺公園 |
西寺 所在地 | 京都市南区唐橋平垣町45-1 |
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