円山応挙 ( まるやま おうきょ ) は、 1733年、 京都の亀岡で農家の次男として誕生。江戸時代中期 ~ 後期の絵師で、 同時代の 伊藤若仲 より17才年下。
写生を重視したリアルな描写が特色で、「 円山派 」の祖。
若き日の応挙
十代で奉公に出た先の京都の高級玩具商「 尾張屋 」で絵の才能を見込まれ、 その時描いたのが上賀茂神社の ※メガネ絵。 二十歳位に、 メガネ絵を描くことで遠近法を身につけていきました。
※ 江戸時代に描かれた浮世絵( 風景画 )の一種。
ヨーロッパ伝来の「 のぞき眼鏡 (町田市立国際版画美術館 蔵 ) 」を通して見ると, 描いた絵が立体的に見えるという当時最先端の絵。 のぞき眼鏡の上部にレンズ, 鏡が取り付けられていて, その下に眼鏡絵を置きます。
レンズを通して見ることで, 奥行きが出て絵が立体的に見えるという代物。 レンズの先には鏡があるから, 必然的に実際の風景とは, 左右逆に描く必要がありました。
眼鏡絵に描かれたのは, 主に京都の観光名所。 上賀茂神社や三十三間堂など。 当時の人々は眼鏡絵を見て, 実際に旅行へ行った気分に浸りました。
注文に応じて絵を描くことが仕事だったので、 お客さんにどうすれば気に入ってもらえるのか ?
ということを考え、 ” リアルさの追求 ” をしていったことが、 応挙の基礎になったと考えられます。
牡丹孔雀図( 重要文化財 )
後世の画家たちがこぞって手本にした絵で、 羽根の一枚一枚、 細部にわったて丁寧に描かれています。 ⇒ 牡丹孔雀図 ( Wikipedia )
色に奥行を出すため裏からも金箔を押し、 顔料に銅を使うなど、 様々な工夫を凝らしています。
リアルさ追求した写生
応挙は、 写生に力を入れたことでも知られています。 懐中に今でいう ” スケッチブック ” を忍ばせ、 気になるものがあれば、 写生していたそう。
馬のからだの各部の実寸し、 写生に書き込んだりしています。
雌雄の鶏の絵
彼の写生のリアルさをを伝える作品が、 八坂神社 にあります。
あまりにリアルすぎて、 絵を描いてある衝立に金網を張り、 あたかも描かれている鶏が逃げないようにする。 というエピソードもあります。
応挙も通った圓光寺
圓光寺 は、 家康が作った学問所が始まりの禅寺。
お寺としては珍しく、 文化サロンのような役割も持っていたそうで、 普通のお寺とは少し違っていたよう。
円山応挙も、 よく圓光寺へ通っていたそうで、 ここで交わる人々からも刺激やインスピレーションを受けていたのかもしれません。
雨竹風竹図屏風
圓光寺には、 応挙が描いた景色が今も残されています。
それは庭の一番奥にある竹林。 ” 応挙竹林 ” と呼ばれています。
圓光寺には、 その竹林を描いたとされる応挙 44才に描いた ” 雨竹風竹図屏風 ” ( 重要文化財 )が展示されています。
左隻 ( 左の屏風 ) は墨の濃淡と竹の姿だけで、 あたかも竹林に風が吹いているかのように表現しています。
右隻 ( 右の屏風 ) の雨竹図も、 雨が直接絵に描いてあるわけではありませんが、 あたかも、 見るものに、 竹が雨に濡れているように感じさせます。
応挙が本当に描きたかったのは竹ではなく、 風や濡れた空気だったのかもしれません。
実際に見たい人は、 圓光寺へ行ってください。 秋は紅葉がとても綺麗 なので、 ” 一石二鳥 ” 。
円山応挙宅址
天明の大火で、 四条の自宅が消失した応挙は、 子供のときに小僧として8才 ~ 15才まで働いていた亀岡の 金剛寺 ( 一名応挙寺 ) に身を寄せることになりました。
故郷の風景
群仙図
その金剛寺で、 修行中の仙人を描いた 群仙図 ( 重要文化財 ) 8幅の掛軸を残しました。
応挙は、 お世話になったお寺に絵を残しておきたいと思っていたところ、
天明の大火に遭い、 いつなんどき焼けてしまうかもしれないという思いから、 逗留したわずか半年の内に数々の作品を残しました。「 波涛図 」「 山水図 」
保津川図屏風
応挙が最後に描いたのも故郷の風景。 63才、 死の2か月前でした。
眼を患いながらも描いたとされるのは、 若き日の京の都へ上るときに目にした故郷の川の流れでした。
最後に。
円山応挙と伊藤若仲
同時代を代表する絵師の二人。
円山応挙は、 あくまでもリアリティーを追求し、 見たものをそのまま表現していきました。 現代の京都画壇へも受け継がれている「 円山派 」の元祖。
伊藤若仲は、 彼なりのやり方で、 デフォルメや想像も交えて遊び心がある絵を描きました。そして、若冲と京都の ” 錦市場 ” には深い縁が。
ともあれ、 二人とも京都を代表する素晴らしい絵師です。
伊藤若仲
若仲は、 錦市場の青物問屋「 枡源 」の長男として生まれた生粋の京都人。
若冲の生家は、 野菜を売っていたので、 若冲の絵に野菜や果物も描かれているのは、 青物問屋の息子として生まれた境遇が関係しているのでしょう。
23才で青物問屋「 枡源 」の主人を務めますが、 あまり仕事をせず、 絵を描いてばかりいたそうで、 40才で家督を弟に譲り、 その後、 大好きな絵に没頭するようになったそうです。
ただ、 仕事には身が入らなかった若仲ですが、 錦市場が営業停止の危機に陥ったとき、 町衆として農民の協力も得ながら、 錦市場の営業許可の再開にこぎ着けた立役者であったそう。
もし、 若仲がいなかったら、 錦市場が今日無かったかもしれないですね。
このように、 若冲と「 錦市場 」は切っても切れない間柄。 若冲の作品を見たければ、 朝か夜の錦市場へ行ってみてください。 営業を終えている商店のシャッターに、 若冲の作品が描かれ、 さながら 伊藤若冲 美術館 。
ちなみに、 伊藤若仲も応挙と同じように ” 天明の大火 ” で自宅や資産を失い、 伏見の石峰寺に移り住みました。
若仲が帰依した黄檗宗のお寺で、 水墨画の虎図を所蔵することでも知られています。 石峰寺の門前に庵を結び、 晩年の10年を過ごしました。
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