「 京都 東陣 」
昔から続く京都の代表的な産業といえば、着物ですよね。
京友禅や西陣織は誰でも知っている京都の伝統産業。
その西陣織の「西陣」って、応仁の乱のときに西軍が陣を張ったことから名づけられました。
そして、西陣があるなら「東陣 ( ひがしじん )」も。
なんだけど、現在は東陣という呼び名はないんです。
地元京都の人間でも西陣は知っていても、かつて京都に東陣があったということを知らない人は多いと思います。
今回は、そんな忘れ去られた京都の東陣を紹介します。
京都 東陣とは
西陣に対して、応仁の乱での東軍が陣を張ったことから「東陣」と呼ばれるようになりました。
京都 東陣の場所
※緑の菱形マークが今回行った東陣の史跡。青の星マークは西陣の史跡。
京都の東陣の場所は薄い緑色のエリアで、西は応仁の乱の激戦地「 百々橋 ( どどばし ) 」のある小川通から東の烏丸通の辺りまで。 北は鞍馬口通、南は一条通のエリアだったと考えられています。
同志社大学 新町キャンパスの西側にある小川児童公園の一角に東陣説明の碑が建てられています。
東軍総大将 細川勝元邸
上の地図で濃い緑のエリアに囲まれたところが応仁の乱の東軍総大将「細川勝元邸」のあったところ。
応仁の乱 激戦地「百々橋 ( どどばし )」から徒歩約30秒のところにあるのが「細川勝元邸」。
道の右側すべてが細川勝元の邸宅だったよう。
ぐるっと邸宅跡を回ってみたけど、細川勝元邸跡のような石碑も建っていませんでした。
西軍の大将 山名宗全 ( やまな そうぜん ) の邸宅跡はちゃんと説明版などがあるのに少し寂しい感じ。
上京区に頑張ってもらって、東陣の説明碑とは別に細川勝元邸跡の碑を建ててほしいものですね。
上杉本洛中洛外図屏風に描かれている細川氏の邸宅「細川殿」
花の御所 ( 足利将軍家の邸宅の通称 )
東陣の東端にあったのが「花の御所 ( 足利将軍家の邸宅の通称 )」。
当時の花の御所は、北側を上立売通、南側を今出川通、東側を烏丸通、西側を室町通に囲まれたエリア。
細川勝元の東軍勢はこの花の御所を拠点としていました。
花の御所があったのは京都御所の北西、同志社大学室町キャンパスの南、今の大聖寺の辺りになります。
御霊神社 応仁の乱勃発の地
御霊神社の西門前に石碑が立っています。
文正二年 ( 1467 ) 正月十八日朝、この付近の御霊の森 ( 御霊神社境内 ) で応仁の乱は始まってしまいました。
前日の十七日深夜, 畠山政長 ( まさなが ) は自らの屋敷を焼き、約二千の兵を率いてここに布陣。
畠山政長と激しく家督を争っていた畠山義就 ( よしなり ) が兵三千で攻撃を仕掛け,、十八日は終日激しい戦闘が続きました。
義就方には朝倉孝景と山名宋全の命令で山名政豊が味方に付いていたけど、政長方には頼みにしていた細川勝元の助勢がなく、丸一日の合戦で政長方退却しました。
これが、応仁の乱最初の合戦。
その年の三月に年号が「応仁」に改められ、細川・山名の両陣営はそれぞれに味方を集め、五月から京都市上京区辺りを中心にして、東西両軍の全面戦争に突入してしまいました。
京都 西陣とは
応仁の乱での西軍が陣を張ったことから「西陣」と呼ばれるようになりました。
西陣では生糸・織物の生産&取引が盛んでした。
西陣エリアにある大宮今出川下ル辺りは 「千両ヶ辻 ( せんりょうがつじ )」 と呼ばれ、一日千両の生糸・織物を商ったことから名づけられたそう。
ところで、西陣というのは単にエリアを指すだけの呼び名で、実際に地名や町名になっているわけではありません。
でも京都では、西陣といえばだいたいあの辺りやなっていうのはわかります。
※西陣 : 北は鞍馬口通、南は中立売通、東は堀川通、西は千本通に囲まれたエリア ( 諸説あり )
京都 東陣 まとめ
西陣は西陣織の発展とともに、今日まで呼び名が残ってきたと思います。 ( ※ 個人的な意見。 )
京都の東陣は歴史の流れの中で、消え去ってしまいました。
西陣織のような商業的に成功したものが東陣辺りにあれば、そのまま地名として残っていたのかも。
これはちょっと変な考え方かもしれないけど、
「ひがしじん」って言いにくいんです (笑)
ゴロが悪いというか、なんというか。一文字多いというか、なんというか・・・。
思い切って、”ひ” を取って「がしじん」にしてくれたらめっちゃ言いやすいのに (笑)
逆に「にしじん」 は言い易いんですよね。
実際に住んでいた人たちが「ひがしじん」って呼びにくいから、消えていったような気もします。
ちなみに、京都市上京区役所に行けば東陣のMapなどが置いてあります。
京都市上京区今出川通室町西入堀出シ町285番地
電話:075-441-0111(代)
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