山南敬介 ( 新選組副長 )の墓 光縁寺

光縁寺 山南敬介 の墓1 / 京都 ブログ ガイド

 

山南敬介 と光縁寺

 

光縁寺の門前近くに

新選組の馬小屋があったため、

毎日新選組の隊士たちが

行きかっていました。

 

山南敬介の家紋

「丸に右離れ三つ葉立葵」と

光縁寺の家紋が同じという縁で、

当時の良誉(りょうよ)上人と

昵懇の間柄となりました。

 

光縁寺 山南敬介の墓3 / 京都 ブログ ガイド

 

この良誉上人は、

葬式を出すことができない

困窮した人たちも

分け隔てなく弔っていたため、

光縁寺の門前には、

度々、むしろに巻かれた亡骸が

放置されていたそうです。

 

山南の紹介で、

新選組で切腹した隊士も

良誉上人に弔われるようになりました。

 

その中には、

山南その人も含まれてしまいました。

 

新撰組隊士のお墓

 

山南以外にも

光縁寺にお墓のある

新選組関係者は、

藤堂平助、服部武雄、松原忠司他

合わせて28名です。

 

光縁寺 山南敬介 の墓7 / 京都 ブログ ガイド

供養料 一人 100円

 

玄関まで行くと

お寺関係者の方がいるので、

話しかけたら、

色々説明してくれます。

 

明治の頃、新選組の存在は、

まだ逆賊としての扱いであり

弔っていることも

はばかられる世だったそうです。

 

前出の良誉上人が、

分け隔てなく弔っていたため、

新選組隊士のお墓も

今日まで光縁寺で

守り続けられてきたのでしょう。

 

新選組好きなら、

一度はお参りしておきたいお寺です。

 

光縁寺

 

光縁寺 山南敬介 の墓2 / 京都 ブログ ガイド

 

光縁寺は、

※浄土宗のお寺で

知恩院の末寺です。

 

創建は、慶長十八年(1613)頃で、

本堂や山門は天明の大火で焼失し、

本堂は、文政二年(1819)、

山門は、弘化三年(1846)に再建され、

現在に至っています。

※ 法然が800年以上前に開いた宗派。
「南無阿弥陀仏」と唱え、極楽浄土に生まれることを願う信仰。

 

本堂

光縁寺 山南敬介の墓4 / 京都 ブログ ガイド

 

本堂には、

中央に本尊の阿弥陀如来を

向かって右に観音菩薩、

左に勢至(せいし)菩薩、

その右脇に※2善導(ぜんどう)大師、

そして、法然上人を祀っています。

※ 唐代の中国浄土教の大成者で、
法然が浄土宗を興すきっかけとなった
「観無量寿経疏かんむりょうじゅきょうしょ」を著した僧。

 

山南敬介

 

山南敬介は、

陸奥国仙台藩出身で、

新選組の副長、

その後総長を務めます。

 

天然理心流道場の試衛館で

道場主の近藤勇と試合をし、

敗れてしまいますが、

その時の

近藤勇の強さと人柄に惚れて、

その後は、

試衛館の食客のような立場になります。

 

京都へ

 

京都で将軍上洛時の警護と、

※尊王攘夷のために、

幕府が浪士組を募集すると

試衛館の近藤や土方歳三らと共に参加し、

上洛しました。

※君主を尊び、外国を排斥しようとする思想

 

浪士組が、

京都から江戸へ帰ると決まっても、

近藤一派と共に京都へ残り、

その京都残留浪士組が、

後の新選組となります。

 

会津藩預かり新選組

 

新選組が、

幕府方の会津藩の援助を受けて

活動するようになると、

尊皇攘夷のために結成された

組織であるにもかかわらず、

尊皇攘夷であっても幕府に敵対する浪士は

取り締まるようになっていきました。

池田屋事件は有名です。

 

本来の尊皇攘夷の活動趣旨から

離れてきていることに疑問を持つ山南。

 

一方、新選組の組織としての存続を

最優先とする土方歳三との間で、

次第に、考えの違いが

浮かび上がってきたのかもしれません。

 

新選組総長 山南敬介

 

新選組の組織再編の際、

新設された「総長」という役職になりますが、

これは、名ばかりの役職で、

実際には、

何の権限もありませんでした。

 

これを契機に、

山南は、新選組での居場所を

なくしていったと考えられます。

 

山南敬介、切腹。

 

元治2年(1865年)2月、

山南は、

「江戸へ行く」と書き残し、

新選組を去ります。

 

驚いた近藤勇は、

追手として沖田総司を差し向け、

滋賀県の大津辺りで

追いついた沖田と共に

山南は新選組へ帰ってきました。

 

光縁寺 山南敬介の墓6 / 京都 ブログ ガイド

 

元治2年(1865年)2月23日

山南敬介は、切腹しました。

 

なぜ、脱走した?

 

脱走理由には、諸説あります。

諸説すべてが絡み合ったからかもしれません。

 

土方歳三との考えの相違によって、

新選組の実権を握る土方が、

山南を閑職へ追いやったことに起因。

 

また、

隊士が増えてきたために、

広い屯所(駐屯地)が必要になり、

西本願寺を候補としました。

 

山南は移転に強く反対しましたが、

近藤勇や土方歳三は、

山南の意見を退けました。

 

その当時、西本願寺は※勤王で、

長州藩との繋がりがとても強かったことから

幕府方に敵対する長州藩を見張る意味でも

一石二鳥と、近藤と土方は考えたようです。

 

勤王の思いが強い山南が、

西本願寺移転に失望したことに起因。

※勤王 王や天皇に忠義を尽くすこと

 

山南敬介の人物

 

心優しく、温厚な性格だったそうです。

 

新選組幹部が宿所とした

八木家の子どもだった八木為三郎によれば、

「丈はあまり高くなく、色白の愛嬌のある顔」で、

「子どもが好きで、どこで逢ってもきっと何か声をかけた」

『八木為三郎老人壬生話』

 

所在地:京都府京都市下京区四条大宮町 大宮通綾小路西入四条大宮町37

電話:075-811-0883




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