京都 歴史
「 京都 歴史 」
平安京へ遷都以来, 京都は日本の首都として1000年以上の歳月を過ごしました。 その長い歴史の中で, 現れては消えていった一瞬の輝き。
京都の街角のいたるところに, 今もひっそりと佇む歴史の跡形をめぐるページ。 時の流れに飲み込まれ, 今は面影すらも見られない往時の姿。 そんな足跡を紹介していきます。
慶長天主堂跡
スポーツの上達にご利益のある「 白峰神宮 」。サッカーワールドカップで使用されたボールも奉納されています。
白峰神宮の東にある油小路を南へ少し下がったところにあるのが、『 慶長天主堂跡 』。 元誓願寺通と交わるところのマンション敷地内に石碑が建っています。

この辺りに, 慶長九年 ( 1604 ) 頃復興されたヤソ会の天主堂教会がありました。
京都でのキリスト教布教は, 織田信長の保護のもとに本格化し, 南蛮寺も建てられたけど, 天正十五年 ( 1587 ) , 豊臣秀吉が宣教師追放令をしいて弾圧しました。
秀吉の死後, 関ヶ原合戦で徳川政権が確立すると, キリスト教布教が自由となり, この場所に, 再び新しい天主堂が建設されました。 旧南蛮寺よりはるかに美しい建物といわれ, 宣教師が常駐し, 荘厳なミサが行なわれ, 付近には学校も建設。
しかし慶長十七年 ( 1612 ) , 徳川幕府はキリシタンの大弾圧を開始, 天主堂も焼き払われてしまうことに。 慶長天主堂が立っていたのは, わずか10年に満たない期間でした。
慶長天主堂跡 アクセス
市バス「 堀川今出川 」バス停は合計4か所あります。 南北の堀川通に北行きと南行きが2か所。東西の今出川通に東行きと西行きが2か所。
● 9 ・ 12号系統が停車する堀川通 ( 南北の通り ) 沿いにある南行き「 堀川今出川 」バス停から徒歩約1分。
● 51 ・ 59 ・ 201 ・ 203号系統が停車する今出川通 ( 東西の通り ) 沿いにある西行き「 堀川今出川 」バス停下車徒歩約2分。
● 地下鉄烏丸線「 今出川駅 」6番出口から徒歩約8分。
京都市 上京区 油小路通 元誓願寺下ル
源融 河原院跡

源融 ( みなもとのとおる ) は, 嵯峨天皇の皇子で, 紫式部が書いた源氏物語の主人公 光源氏の実在モデルといわれています。
京都 六条にあった源融の邸宅である河原院 ( かわらのいん ) は, 源氏物語で光源氏の邸宅の「 六条院 」とされていて, 物語ではここで暮らし, 栄達の極みを謳歌する舞台となっています。
実際の河原院はというと, 東西はここから柳馬場通まで, 南北は五条通から六条通 ( 一説には正面通 ) までの恐ろしく広い敷地。 ほんまに広い ! ! ( 下のMapの青紫色で囲まれたところ )
その広大な敷地内に, 宮城県の塩竈 ( しおがま ) の風景を元にして庭園を造り, 兵庫県の尼崎から大量の海水を運んできて, 塩を作って楽しんだそう。
海のない京都で, めっちゃ贅沢な遊びやなー。
河原町五条の西に「 塩竈町 」, 「 本塩竈町 」という町名があるのは, 河原院に塩竈 ( しおがま ) の風景があったことに由来。
そして, この榎の大木が, 河原院にあった森の名残ともいわれています。
源融 河原院跡 アクセス

京阪電車「清水五条駅」1番出口から徒歩約2分。
京都市下京区木屋町通五条下ル
妙顕寺城跡

現在は, 「西福寺」が建っています。 この辺りに, 周囲に堀をめぐらし, 天主もあげた城郭が存在していました。
築城前に妙顕寺というお寺があったことから「 妙顕寺城 」と呼ばれ, 天正十四年 ( 1586 ) に聚楽第 ( じゅらくだい ) が造られるまで, 豊臣秀吉の京都での政庁としての役割を果たしていたよう。
普段は, 前田玄以 ( まえだげんい ) が居住していたけど, 秀吉が上洛すると妙顕寺城が宿舎となりました。

押小路通小川西入ル辺りに妙顕寺城があったと考えられています。 この道を真直ぐ行くと, 徒歩約3分で二条城の東大手門。
現在は, 妙顕寺城の跡形は全くないけど, この辺りは「 古城町 ( ふるしろちょう ) 」という名前で, 当時の面影を偲ばせています。
妙顕寺城跡 アクセス

地下鉄「 二条城前駅 」2番出口から徒歩約2分。 押小路通小川西入ルにあります。
京都府 京都市 中京区 古城町 370 西福寺前
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