京都 歴史
「 京都 歴史 」
平安京へ遷都以来, 京都は日本の首都として1000年以上の歳月を過ごしました。 その長い歴史の中で, 現れては消えていった一瞬の輝き。
京都の街角のいたるところに, 今もひっそりと佇む歴史の跡形をめぐるページ。 時の流れに飲み込まれ, 今は面影すらも見られない往時の姿。 そんな足跡を紹介していきます。
本阿弥光悦 ( ほんあみこうえつ ) 京屋敷跡
サッカーワールドカップで, 使用されたボールも奉納されているスポーツ上達の神様 白峰神宮の東, 油小路通今出川上ル ( 京都市上京区実相院町 ) にあるのが, 「 本阿弥光悦京屋敷跡 」。 現在はマンションになっています。
この地は, 室町時代の初期から, 刀剣の研ぎ ・ 拭ひ ( 手入れ ) ・ 目利きの3つの技能で活躍した本阿弥家代々の屋敷跡。
本阿弥光悦 ( ほんあみこうえつ ) は, 江戸時代初期に活躍し, 本阿弥家の歴史の中でも, 刀の技能だけではなく, 特に書道や茶道に才能を発揮し, 徳川家康から58歳の時に洛北の鷹峯に領地を与えられるほどでした。
ちなみに, その書流は, 光悦流の祖と仰がれています。
本法寺 本阿弥家の菩提寺
本阿弥家屋敷跡から北へ徒歩約5分のところにあるのが, 「 本法寺 」。 春には桜の風景が美しいお寺で, 本阿弥家の菩提寺。
光悦の書画 ・ 什器 ( じゅうき 日常生活用の器具 ) も多数所蔵し, 本法寺の国指定名勝 巴の庭も光悦が作庭しました。 寺宝にも, 本阿弥光悦筆の法華題目抄など書二点の重要文化財を所蔵しています。
京都府 京都市 上京区 油小路通今出川上ル 実相院町
坂本龍馬お龍「結婚式場」跡
岡崎の琵琶湖疎水から分かれて流れ出た白川が, 三条通の下をくぐるところから, 少し東へ行ったマンションの片隅にあるのが, 『 坂本龍馬お龍「 結婚式場 」跡 』。
元治元年 ( 1864 ) 8月初旬, この辺りにあった青蓮院 塔頭の金蔵寺で, 2人は内々の結婚式を挙げました。 お龍 ( おりょう ) の父親が, 青蓮院宮に仕えた医師だったので, ここが選ばれたよう。
2人の結婚式については他にも説があるようだけど, 実際に内祝言を挙げたお龍が1899年 ( 明治32年 ) ごろに回想で話しているから間違いないでしょう。
ちなみに, 坂本龍馬お龍が内祝言をした元治元年 ( 1864 ) は, 池田屋事件 ( 6月 ) や禁門の変 ( 7月 ) が起きた幕末の激動の時でした。
碑文より
薩長同盟所縁の地 ( 小松帯刀寓居跡 )
地下鉄烏丸線「 鞍馬口駅 」2番出入口から徒歩約1分。 烏丸通鞍馬口にあるスーパーのすぐ西側。 鞍馬口室町の南東角に石碑が立っています。
慶応二年 ( 1866 ) 年1月21日, 坂本龍馬や中岡慎太郎の仲介で, 薩摩藩と長州藩の同盟が実現しました。
両藩はそれまで, 藩の方針の違いから京都の政界で主導権争いを続けていました。 一時, 京都政界から追放された長州藩が措置不当を訴えるために軍を率いて上洛し, 御所の蛤御門で, 警備する薩摩藩などと武力衝突するなどしたために, ずっと犬猿の仲でした。
この歴史的同盟が結ばれた場所が, 薩摩藩家老 小松帯刀 ( こまつたてわき ) の京都の屋敷。 この屋敷は, 近衛家の別邸で, 通称 御花畑屋敷といわれていました。
小松帯刀は, あまり知られていないけど, 坂本龍馬の新政府の人事構想では, 西郷隆盛や大久保利通, 桂小五郎らを抑えて, 小松帯刀が筆頭に挙げられていました。 ( Wikipedia )
慶長天主堂跡
スポーツの上達にご利益のある「 白峰神宮 」。サッカーワールドカップで使用されたボールも奉納されています。
白峰神宮の東にある油小路を南へ少し下がったところにあるのが、『 慶長天主堂跡 』。 元誓願寺通と交わるところのマンション敷地内に石碑が建っています。
この辺りに, 慶長九年 ( 1604 ) 頃復興されたヤソ会の天主堂教会がありました。
京都でのキリスト教布教は, 織田信長の保護のもとに本格化し, 南蛮寺も建てられたけど, 天正十五年 ( 1587 ) , 豊臣秀吉が宣教師追放令をしいて弾圧しました。
秀吉の死後, 関ヶ原合戦で徳川政権が確立すると, キリスト教布教が自由となり, この場所に, 再び新しい天主堂が建設されました。 旧南蛮寺よりはるかに美しい建物といわれ, 宣教師が常駐し, 荘厳なミサが行なわれ, 付近には学校も建設。
しかし慶長十七年 ( 1612 ) , 徳川幕府はキリシタンの大弾圧を開始, 天主堂も焼き払われてしまうことに。 慶長天主堂が立っていたのは, わずか10年に満たない期間でした。
慶長天主堂跡 アクセス
市バス「 堀川今出川 」バス停は合計4か所あります。 南北の堀川通に北行きと南行きが2か所。東西の今出川通に東行きと西行きが2か所。
● 9 ・ 12号系統が停車する堀川通 ( 南北の通り ) 沿いにある南行き「 堀川今出川 」バス停から徒歩約1分。
● 51 ・ 59 ・ 201 ・ 203号系統が停車する今出川通 ( 東西の通り ) 沿いにある西行き「 堀川今出川 」バス停下車徒歩約2分。
● 地下鉄烏丸線「 今出川駅 」6番出口から徒歩約8分。
京都市 上京区 油小路通 元誓願寺下ル
源融 河原院跡
源融 ( みなもとのとおる ) は, 嵯峨天皇の皇子で, 紫式部が書いた源氏物語の主人公 光源氏の実在モデルといわれています。
京都 六条にあった源融の邸宅である河原院 ( かわらのいん ) は, 源氏物語で光源氏の邸宅の「 六条院 」とされていて, 物語ではここで暮らし, 栄達の極みを謳歌する舞台となっています。
実際の河原院はというと, 東西はここから柳馬場通まで, 南北は五条通から六条通 ( 一説には正面通 ) までの恐ろしく広い敷地。 ほんまに広い ! ! ( 下のMapの青紫色で囲まれたところ )
その広大な敷地内に, 宮城県の塩竈 ( しおがま ) の風景を元にして庭園を造り, 兵庫県の尼崎から大量の海水を運んできて, 塩を作って楽しんだそう。
海のない京都で, めっちゃ贅沢な遊びやなー。
河原町五条の西に「 塩竈町 」, 「 本塩竈町 」という町名があるのは, 河原院に塩竈 ( しおがま ) の風景があったことに由来。
そして, この榎の大木が, 河原院にあった森の名残ともいわれています。
源融 河原院跡 アクセス
京阪電車「清水五条駅」1番出口から徒歩約2分。
京都市下京区木屋町通五条下ル
妙顕寺城跡
現在は, 「西福寺」が建っています。 この辺りに, 周囲に堀をめぐらし, 天主もあげた城郭が存在していました。
築城前に妙顕寺というお寺があったことから「 妙顕寺城 」と呼ばれ, 天正十四年 ( 1586 ) に聚楽第 ( じゅらくだい ) が造られるまで, 豊臣秀吉の京都での政庁としての役割を果たしていたよう。
普段は, 前田玄以 ( まえだげんい ) が居住していたけど, 秀吉が上洛すると妙顕寺城が宿舎となりました。
押小路通小川西入ル辺りに妙顕寺城があったと考えられています。 この道を真直ぐ行くと, 徒歩約3分で二条城の東大手門。
現在は, 妙顕寺城の跡形は全くないけど, この辺りは「 古城町 ( ふるしろちょう ) 」という名前で, 当時の面影を偲ばせています。
妙顕寺城跡 アクセス
地下鉄「 二条城前駅 」2番出口から徒歩約2分。 押小路通小川西入ルにあります。
京都府 京都市 中京区 古城町 370 西福寺前
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