「 本能寺跡 」
「 敵は, 本能寺にあり ! ! ! ! 」
明智光秀が, 言い放った有名なセリフ。
天正十年 ( 1582 ) 六月二日に, 織田信長が僅かな供回りのみを連れて宿泊していた本能寺に, 光秀が急襲し, 信長の天下統一への夢は潰えてしまいます。
この時, 光秀が襲撃した本能寺は, 賑やかな寺町商店街に面している本能寺ではありません。
全く別のところにありました。
本能寺の変, 本当はこの場所で起こった
現在の本能寺 ( 寺町通御池下ル ) で, “本能寺の変” があったわけではありません。
明智光秀が織田信長を攻めた時の本能寺は, 油小路蛸薬師辺りにありました。
今は「本能寺跡」の石碑が建っています。
実は, “本能寺の変” が起こった時の場所 ( 油小路蛸薬師辺り ) に来るまでに, 本能寺はたびたび移転を繰り返しています。
応永二十二年 ( 1415 ) , 油小路高辻の地に本応寺として創立。 その後, 永享五年 ( 1433 ) に六角大宮に移って本能寺と改称。
※天文法華の乱で焼失したけど, 天文十六年頃に, 本能寺の変が起こった場所に再興されました。
当時は広大な寺域を占めていて, 織田信長 の京都での仮宿所になっていたけど, 天正十年 ( 1582 ) 六月二日に 明智光秀の襲撃によって, 本能寺は焼失してしまいました。
後に, 息子 織田信孝が, 父信長の廟を建てたために, 本能寺は再びこの地に復興したけど, 豊臣秀吉の京都の区画整理により, 天正年間に現在の寺町御池に移されました。
※ 天文5 ( 1536 ) 年 7月に延暦寺の衆徒が京都の法華宗徒を武力で洛外へ追放した事件。
現在の本能寺跡
自治会館, 堀川高校や老人ホームなどになっています。
本能寺は, 度々火災によって焼失したことにより, 本能寺の “能” の字に「 ヒ ヒ 」と入っていることを嫌い, 上記画像のような字を用いています。
寺町通御池下ルの本能寺でも同じように, “能” が使われていません。
機会があれば, 見てみてください。
本能寺跡 アクセス
本能寺跡は京都市中京区の油小路蛸薬師にあります。
・京都市バス 「四条堀川」バス停下車, 徒歩約4~5分
※市バス 「四条堀川」バス停は5か所あって, 下車場所によって本能寺跡への所要時間が変わります。
・地下鉄「四条駅」, 阪急「烏丸駅」24番出入口から徒歩約9分
本能寺跡 まとめ
天正十年 ( 1582 ) 六月二日の「本能寺の変」は, 現在の京都市中京区の寺町通御池下ルにある本能寺で起こったわけではありません。
私も初めは, 今の本能寺で起こったと思っていました。
「 本能寺の変 」の時には, 京都市中京区の油小路蛸薬師にありました。
現在の本能寺跡には「 本能寺跡の石碑 」がひっそりと建っています。
本能寺は「 本能寺の変 」だけではなく, 歴史上たびたび火災にあってしまいました。
そのため, 本能寺跡の石碑や本能寺の門の名称には, 『 火 ( ヒ ) 』が入っている “能” の漢字を使わずに, 『 去 』を使っているのが印象深かった。
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