立本寺 島 左近の墓 関ヶ原で、大奮戦。

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立本寺

 

「 立本寺 」

七本松通仁和寺街道上ルにある立本寺に「 島 左近の墓 」があります。

島 左近は、関ヶ原の戦いで、大奮戦した武将として知られています。

島 左近

本名は、清興( しま きよおき )とも勝猛( かつたけ )とも言われていますが、通称の ” 左近 ” が一般的。

現在の奈良県生駒郡平群( へぐり )町辺りの出身と考えられています。

最初、 ※1 筒井順慶に仕えていましたが、順慶が病に倒れた後に、筒井家を継いだ順慶の甥・筒井定次とは意見が合わず、牢人となりました。

※ 1 戦国時代から安土桃山時代にかけての戦国大名で、大和筒井城主。

その後、多くの仕官の誘いがありましたが、当時の ※2石田三成の禄高4万石のうちの半分を与えられるという破格の待遇で、三成に仕えました。

「 三成に過ぎたるものが二つあり、 島の左近と佐和山の城 」と言われるほど、高名な武将でした。

※2 安土桃山時代の武将・大名で、 佐和山城主。豊臣政権の五奉行のうちの一人。
豊臣秀吉の死後、 徳川家康と対立し、 関ヶ原の戦いで敗れ、 京都 京都 六条河原で処刑された。

関ヶ原の戦いでは、小早川秀秋の東軍への寝返りにより、西軍が不利になる中、 大奮戦し、最後は、黒田長政軍及び田中吉政軍に突撃し、銃撃により討ち死したと伝えられています。

島 左近の勇猛さ ・ 恐ろしさは尋常ではなかったらしく、特に左近を討ち取った黒田長政軍の兵士たちは、関ヶ原から数年が過ぎても戦場での悪夢にうなされたそうです。

島 左近は生きていた!?

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ただし、 黒田長政軍が、島 左近を打ち取ったといわれていますが、実際には、左近の遺体は、見つかっていません。それどころか、関ヶ原の合戦後に、京都で島左近を目撃したという者が数多くいたそうです。

それを証明するかのように、今回紹介する島左近の墓は京都市の立本寺にあります。

一説には、島左近は関ヶ原の合戦後、落ち延びて立本寺の僧として、32年後に死去したとされています。位牌や過去帳も塔頭に残され、寛永9年6月26日没などと記されているそう。

島 左近の墓

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入口を入ると、矢印が導いてくれます。

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真実は、どうだったんでしょうか?

立本寺( りゅうほんじ )

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日蓮宗の本山で、 山号は具足山。

日像が創建した妙顕寺を起源としています。

創建についてははっきりしませんが、宝永五年(1708)に火事で本堂などを焼失した後に、今出川寺町から現在地へ移転してきました。

立本寺( りゅうほんじ )

所在地:京都府 京都市 上京区 七本松通仁和寺街道上ル 一番町107

上ル下ル西入東入について

※ 拝観時間 ・ 拝観料等は変更されることがありますので、 寺院にご確認ください。 万が一、 間違っていたとしても、 責任は負いかねます。 予めご了承ください。

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