本能寺跡 本能寺の変はここで起こりました。

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本能寺跡

 

「 本能寺跡 」

現在の本能寺( 寺町通御池下ル )で、 本能寺の変があったわけではありません。 明智光秀が織田信長を攻めた本能寺は、 油小路蛸薬師辺りにありました。




 

本能寺の変はここで起こりました。

応永二十二年( 1415 )、日隆上人が、 油小路高辻の地に本応寺を創立しました。 その後、 永享五年( 1433 )に六角大宮に移って本能寺と改称されました。

※ 天文法華の乱で焼失しましたが、 天文十六年頃に、 第八世日承によって、 西洞院通と 小川通の間の四条坊門( 今の蛸薬師 )の北に再興されました。

※ 天文5 ( 1536 ) 年 7月に延暦寺の衆徒が京都の法華宗徒を武力で洛外へ追放した事件。

当時は広大な寺域を占め、織田信長 の仮宿所になりましたが、 天正十年( 1582 )六月二日に明智光秀 によって、 本能寺は焼失してしまいました。

後に、 息子織田信孝が、 父信長の廟を建てたために、 本能寺は再びこの地に復興を見ることになりましたが、 豊臣秀吉の京都の区画整理により、 天正年間に現在の寺町御池に移されました。

織田信長

織田信長は、尾張国( 現在の愛知県 )で生まれた戦国大名。

家督を継ぐまでの若いころは、 奇抜な行いや服装をしたりして周りから「 うつけ者 」と陰口をたたかれていました。 永禄3年( 1560 )の桶狭間の戦いでは、 情報収集を駆使して、 油断していた今川義元を奇襲で討ち取りました。

その後は、 美濃を攻略し、 近江の浅井氏との婚姻などを経て、 京の都への道筋を確保し、 ※足利義昭を将軍職にするため、永禄十一年( 1568 )、 京都への進出を果たします。

※ 室町幕府第十五代将軍

その後、 確実に領土を拡げて行き、 羽柴秀吉の求めに応じ、 中国地方攻略の総仕上げをするために、 自らが出陣することとなり、中国地方へ向かう途中で京都 本能寺に泊まることになりました。

天下統一への道筋も見えてきていて、 京都の周りには敵がいなかったことなどから信長は安心してしまっていたのでしょうか、 わずかな家来しか連れず、 本能寺に宿泊しています。

そして、 天正10年6月2日( 1582 )、 家臣の 明智光秀 にその隙を突かれ、 亡くなってしまいました。

明智光秀

明智光秀は、 戦国武将で、 岐阜県可児市明智出身といわれています。

一族離散後、 苦労の放浪の末、 織田信長に仕えることになりました。 朝廷への政治力、 戦での統率力などで、 織田軍の中で頭角を現し、 近江の坂本に領地を与えられ、 大名となりました。

光秀が謀反を起こした理由には諸説あります。 本当に戦国時代のミステリーではないでしょうか?

・室町幕府再興のため、

・丹波攻略時に人質に差し出していた母親を信長の命令で見殺しにさせられたため、

・同僚が次々左遷させられ、 次はわが身かと恐れたため、

・四国攻略で、 信長と ※長宗我部元親との板挟みになったため、

※土佐( 現在の高知県 )の戦国大名。 四国の統一を目指したが、信長、秀吉によって阻まれた。

・単に天下を取りたかったため、

などの理由が考えられますが、 それらが絡み合って、 信長を討ったのかもしれません。

信長が本能寺に少しの家来と共に泊っていたという千載一遇の隙を見逃さず、 目的を果たします。

あまりにも、 突然降ってわいたような光秀にとっての好機だったために、 事後の根回しや段取りなどもする余裕がなく、 本能寺の変から、 わずか13日後に羽柴秀吉との天王山の戦いで敗れました。

現在の本能寺跡

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現在は、 自治会館、  堀川高校や老人ホームなどになっています。

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本能寺は、 度々火災によって焼失したことにより、 本能寺の ” 能 ” の字に「 ヒ ヒ 」と入っていることを嫌い、 上記画像のような字を用いています。




 

所在地 : 京都市 中京区 油小路通蛸薬師下ル

京都市バス 四条堀川下車 徒歩約3分




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