「 木屋町 幕末 」
京都 木屋町通沿いや周辺には幕末の史跡がいっぱい。
繁華街の木屋町だからアクセスも良く、グルメも満載。
木屋町 幕末史跡めぐりMAP
木屋町四条辺りから木屋町二条辺りまで。 歩いて回るにはちょうど良い距離。
今まで何気なく歩いていたところにこんなところがあったんだ、こんなことがあったんだ、というような発見があるかも。
木屋町 幕末 史跡めぐり【御池通以北】
桂小五郎銅像

京都ホテルオークラの西北角にあります。
桂小五郎は長州藩( 現在の山口県 )出身で、主に長州藩の政治を担いました。※1薩長同盟にも深くかかわり、明治維新の立役者として西郷隆盛・大久保利通と同じく、維新の三傑の一人に挙げられました。
維新後は※2廃藩置県などを実施し、西南戦争中に病死。
※1 犬猿の仲である長州藩と薩摩藩との同盟。 桂小五郎も深くかかわり、明治維新への流れを決めました
※2 藩をやめて県を置いたこと
長州藩邸跡 ( 京都ホテルオークラ )
長州藩邸のあった京都ホテルオークラから※池田屋事件のあった場所までは徒歩で約3分ほど。
新選組による※池田屋襲撃の日、桂小五郎も尊王攘夷志士達の話合いへ行く予定になっていました。

しかし、たまたま、池田屋へ行く時間が早く、まだだれも来ていなかったため引き返しました。
もし、この時、桂小五郎が新選組によって殺されていたら・・・・ 、薩長同盟は存在していなかったかもしれません。
大村益次郎遺跡
大村益次郎が住んでいたという場所。

この住居へ帰る途中に三条木屋町の「佐久間象山・大村益次郎遭難の地」で襲われました。
木屋町 幕末 史跡めぐり【御池通~三条通】
池田屋跡 (池田屋事件)

木屋町通沿いではないけど、三条木屋町の交差点から徒歩約30秒。
現在はそのもの「旅籠茶屋 池田屋 はなの舞」という居酒屋になっています。
過激志士たちが「祇園祭の前の風の強い日を狙って御所に火を放ち、その混乱に乗じて中川宮朝彦親王を幽閉、一橋慶喜・松平容保らを暗殺し、孝明天皇を長州へ動座させる(連れ去る)」という企てを察知した新選組が、祇園祭の宵山の7月16日、その過激志士が謀議している池田屋を急襲しました。
最初に池田屋に踏み込んだのは、近藤勇・沖田総司・永倉新八・藤堂平助の4名。
新選組は、宮部鼎蔵など9名を討ち取り、4名捕縛の戦果を上げました。

京都を火の海から救ったということで新選組の名声は高まりました。
逆に、池田屋事件で吉田稔麿・北添佶摩・宮部鼎蔵などの逸材を失ったために、明治維新が1年遅れたといわれています。
佐久間象山・大村益次郎遭難の地
佐久間象山は、信州松代藩の出身。 西洋科学の導入で日本の殖産興国に尽力しました。
彼の塾からは、勝海舟・吉田松陰・坂本龍馬などが輩出されています。
元治元年(1864)に京都へ入り、日本は鎖国をやめて開国するべきだ、と訴えていたため攘夷(外国を排除する考え)の刺客に殺されてしまいました。

大村益次郎は、長州藩(現在の山口県)出身で医学者であり、兵学者でもありました。
長州藩の軍事指導者として活躍し、維新後は兵部大輔に任命され、近代兵制樹立に尽力しました。
しかし、※廃刀論で士族の反感を買い、明治二年、三条木屋町で廃刀論反対の士族に襲われ、同じ年に敗血症で亡くなりました。
※軍人・警察官にのみ帯刀を認め、士族などが刀を持つことを禁止。
武市半平太寓居跡

武市半平太は、土佐藩(現在の高知県)出身で、土佐勤王党の盟主。
一時は、京都で土佐藩を尊皇攘夷運動の中心的役割まで押し上げましたが、同じ考えの長州藩が、会津藩・薩摩藩との政争に敗れ、京都の政界から追放されたことで、武市半平太は失脚・投獄され、約1年8か月後に切腹を言い渡されました。
吉村寅太郎寓居跡

吉村寅太郎は、土佐藩(現在の高知県)出身で、武市半平太の教えを受けて、土佐勤王党に参加。 ※1寺田屋事件で捕まり、土佐で投獄されました。
その後、文久三年に三月に再び京都へ来たときに、この場所に住み、※2尊王攘夷活動の中心人物として活躍しました。
文久三年に八月に「天誅組」を結成し、大和五条(奈良県五條市)の幕府代官所を占領しましたが、その後、奈良の鷲家で戦死しました。
※1 伏見 幕末史跡めぐりの寺田屋参照
※2 君主を尊び, 外国を排除しようとする思想。
対馬宋氏屋敷跡・桂小五郎寓居跡

現在の木屋町姉小路辺りは、長い間、鴨川の西の河原でした。
徳川の時代に入り、寛永十九年(1642)頃までに、このあたりも市街地化したとみられます。
当初は角倉平次(角倉了以の孫)の屋敷でしたが、その後、対馬国(現在の長崎県)の大名宋氏(そうし)の邸宅となりました。
対馬の宋氏は長州毛利家と縁戚関係だったので、その家臣であった大島友之允(故大島渚監督の曽祖父)は、桂小五郎と親しく、そのため、桂は対馬屋敷を住居の一つとしていました。
木屋町 幕末 史跡めぐり【三条通~四条通 】
坂本竜馬寓居跡 (酢屋)
「酢屋」は300年以上続く伝統の材木商の老舗。

現在も営業しているのがすごいですね。
龍馬と酢屋の歴史を紹介している「ギャラリー 龍馬」もあります。


坂本龍馬をはじめ、多くの海援隊隊士が住み、「海援隊京都本部」も置かれていました。
坂本龍馬 妻 おりょう独身時代寓居跡


楢崎 龍(ならさき りょう)、坂本龍馬の妻として知られています。
※寺田屋事件ではおりょうの機転により龍馬は幕府から逃れました。
※薩長同盟の首謀者として恨まれていた龍馬を伏見奉行所が襲撃した事件
※伏見 幕末史跡めぐりの寺田屋参照


碑の立っている雑居ビルの1Fに「龍馬」というスナックがあります。
着物姿のマスターとママがいます。



ちょっとディープだけど、龍馬ファンの人は行ってみてはどうでしょう(^^)
土佐稲荷神社
祭神は「倉稲魂命(うかまみたまのみこと)」、「石栄神(せきえいのかみ)」。
農耕・商売・土木・金工などの繁栄、火難除けなどの災厄除けにもご利益があります。
室町時代初期に鴨川の中州の岬(突端)に祠を建てたのが由来とされています。


江戸時代初期に土佐藩邸内に遷されることになり、お稲荷さんの愛称で知られる「倉稲魂命」を祀るため、結果、土佐稲荷と呼ばれるようになりました。
地元の人の信仰も厚く、土佐藩邸内にお参りのための通路を造るほどでした。
坂本龍馬などもお参りしていたと考えられます。
土佐藩邸跡


土佐藩(現在の高知県)は、坂本龍馬、中岡慎太郎、武市半平太など幕末に活躍した人物を輩出した藩。
本間精一郎遭難の地


本間精一郎は新潟県の出身で、文武両道に優れ、弁舌も巧みであったそう。
尊王攘夷活動に身を投じ、特定の藩に属さなかったため、自由に行動することができました。
公家や長州、薩摩、土佐の藩士にも遊説し、尊王攘夷の急進派でした。
しかし、伏見の※「寺田屋事件」以後は、その活動が思うようにいかないように。
次第に酒色に溺れ、人望もなくすようになり、文久二年八月二十日夜、この場所で襲われ、命を亡くしました。
※伏見 幕末史跡めぐりの寺田屋参照
古高俊太郎邸跡


古高俊太郎は, 滋賀県大津の生まれで、※勤王思想を学び、勤王志士とも交流。
枡屋湯浅喜右衛門と名前を変え、この地に「枡屋」を構えました。
ひそかに武器を集め、倒幕活動の拠点となっていました。
しかし、元治元年(1864)六月五日、新選組に捕縛され、屯所での拷問の末、過激志士の京都御所に火を放つなどの計画を白状しました。
この情報がもとで、のちに「池田屋事件」が起こります。
※天皇に忠義を尽くすこと。
木屋町 幕末 史跡めぐり【河原町通】
木屋町通ではないけど、1本西の河原町通にも幕末の史跡があります。
坂本竜馬・中岡慎太郎遭難の地 (近江屋跡)


現在はカラオケボックスになっています。
慶応三年(1867)に、海援隊隊長の坂本龍馬と陸援隊隊長の中岡慎太郎が、ここにあった近江屋で暗殺されました。
坂本龍馬は海援隊の本部があった前出の「酢屋(坂本竜馬寓居跡)」に下宿していましたが、薩長同盟の首謀者として幕府から狙われていたため、この近江屋へ移っていました。
十月十五日の夕刻に、中岡慎太郎が訪ねてきて、大政奉還後の政局を話していましたが、夜、刺客に襲撃されました。


中岡慎太郎寓居跡


中岡慎太郎は、土佐藩(現在の高知県)出身で、坂本龍馬と共に薩長同盟成立に尽力し陸援隊の隊長となりました。
前出の近江屋に坂本龍馬を訪問中、襲撃されて瀕死の状態になりますが、その後二日間生き延び、暗殺犯の襲撃の様子について詳細に語ったということです。
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