「 京都 新選組 」
新選組に興味を持ったのは、司馬遼太郎の「燃えよ、剣。」を読んでから。
新選組副長 土方歳三の生きざまに引き込まれました。
そして、京都を舞台として一瞬の煌めきを残して消えていった新選組に強く興味を持つことに。
ということで、今回は京都にある新選組ゆかりの地をめぐりします。
新選組とは
元々新選組は江戸から京都へ上洛する将軍 徳川家茂の警護をするために江戸で募集された浪士隊。
京都到着後に紆余曲折あって、京都から江戸へ帰ることに承服しない浪士達が京都に残留。
その中に、近藤勇や土方歳三、沖田総司などがいました。
その後、京都守護職会津藩御預かりの新選組として、京都の治安維持のために奔走していくことになります。
京都 新選組 マップ
京都市の広範囲にわったって新選組関係の史跡が点在しているけど、京都市下京区の壬生・島原や京都駅周辺にかたまっています。
京都市左京区
金戒光明寺
金戒光明寺の三重塔辺りからの眺め。
幕末の京都で、京都守護職 会津藩 松平容保 ( かたもり ) の本陣が置かれていました。
京都守護職御預かりだった新選組が京都で生まれたのも、ここ金戒光明寺。
会津藩と新選組は深いつながりがありました。
京都市左京区黒谷町121 ※クリックでGoogleマップ
京都市中京区 三条木屋町辺り
池田屋跡 ( 池田屋事件 )
京都で新選組の名を轟かせることとなったのが「 池田屋事件 」。
過激志士たちが 「 祇園祭の前の風の強い日を狙って御所に火を放ち, その混乱に乗じて中川宮朝彦親王を幽閉, 一橋慶喜・松平容保らを暗殺し, 孝明天皇を長州へ動座させる ( 連れ去る ) 」 という企てを察知した新選組が 元治元年 ( 1864 ) 祇園祭の宵山の日、その過激志士が謀議している池田屋を急襲しました。
この時、新選組で最初に池田屋に踏み込んだのは、近藤勇・沖田総司・永倉新八・藤堂平助の4名。
新選組は、宮部鼎蔵など9名を討ち取り、4名を捕縛。京都を火の海から救ったということで、この時を境に新選組の京都での名声は高まりました。
逆に池田屋事件で、吉田稔麿・北添佶摩・宮部鼎蔵などの逸材を失ったために、明治維新が1年遅れたといわれています。
現在は「旅籠茶屋 池田屋 はなの舞」という居酒屋になっています。
京都市中京区中島町82申和三条ビル ※クリックでGoogleマップ
池田屋はなの舞 (@ikedaya_hana) / Twitter
京都市東山区
三条大橋 池田屋事件の刀傷
三条大橋西側から二つ目の南北の擬宝珠 ( ぎぼし ) に刀傷。
これは上の池田屋事件の時に新選組の隊士がつけたのではないか、といわれています。
京都市東山区大橋町 ※クリックでGoogleマップ
壬生・島原周辺
光縁寺 山南敬助 ( 新選組副長 ) 他の墓他
山南敬助は陸奥国仙台藩出身で、新選組の副長、その後総長を務めます。
山南敬助の家紋「丸に右離れ三つ葉立葵」と光縁寺の家紋が同じという縁で、当時の良誉 ( りょうよ ) 上人と昵懇の間柄となりました。
山南の紹介で新選組で切腹した隊士も良誉上人に弔われるように。
その中には、山南その人も含まれてしまいました。
山南以外にも光縁寺にお墓のある新選組関係者は, 藤堂平助, 服部武雄, 松原忠司他合わせて28名。
京都市下京区四条大宮町大宮通綾小路西入四条大宮町 37 ※クリックでGoogleマップ
壬生寺
壬生寺には京都での新選組の屯所が置かれ、境内の池の中州にある壬生塚には近藤勇&土方歳三の胸像や芹沢鴨の墓塔があります。
厄除け・開運の寺としても知られ、2月の厄除け節分会は約900年の歴史をもつ行事。
また、春と秋に行われる壬生狂言は壬生寺の代名詞ともなっています。
京都市中京区坊城仏光寺北入ル ※クリックでGoogleマップ
八木邸
八木家は壬生村きっての旧家でかつて壬生郷士 ( 壬生住人士 ) の長老をつとめていました。
また幕末には新選組の近藤勇、土方歳三らの京都での宿所となり旧壬生屯所として知られています。
建物は長屋門が東に開きその奥に主屋が南面して建ち、普請願から長屋門が文化元年( 1804 ) 、主屋は文化六年の造営。
京都市中京区壬生梛ノ宮町24 ※クリックでGoogleマップ
島原辺り 角屋もてなしの文化美術館 ( 角屋 )
壬生の屯所から近く幕府と対立していた志士たちを探索するためm新選組は京都 島原へはよくやって来ました。
角屋もてなしの文化美術館 ( 角屋 ) には、新選組の刀傷が残されています。
京都市下京区西新屋敷揚屋町32 ※クリックでGoogleマップ
JR京都駅周辺
新選組 最後の洛中屋敷跡
慶応三年 ( 1867 ) 6月、新選組が江戸幕府の直参 ( 直属の軍隊 ) になったのに合わせて新屋敷が建設されました。
同年12月の王政復古により新選組は、わずか半年でこの屋敷を離れることになりました。
現在は京湯元 ハトヤ瑞鳳閣という旅館になっています。
京都市下京区西洞院通塩小路下ル南不動堂町802番地 ※クリックでGoogleマップ
不動堂明王院( まぼろしの屯所 )
諸説あるようだけど、新選組の「不動堂村の屯所」であるとされています。
不動堂明王院は、弘法大師空海が嵯峨天皇から東寺を賜ったときに、東寺の鬼門にあたるこの地を選んで平安京守護のため不動尊を祀ったことが始まり。
京都市下京区南不動堂町7 ※クリックでGoogleマップ
伊東甲子太郎ほか数名殉難の地 ( 本光寺 )
伊東甲子太郎は、常陸 ( 茨城県 ) 出身で、学問もでき、北辰一刀流の名手。元治元年 ( 1864 ) に門弟ら7人と共に新選組に入隊し、参謀となりました。
しかし、江戸幕府を敬う近藤勇と次第に反目するようになり、慶応三年 ( 1876 ) 三月に同志15人と共に新選組を脱退し、薩摩藩の援助を受け、高台寺の月真院を屯所とする御陵衛士となりました。
新選組を脱退した上、盛んに倒幕を説いて廻ったため新選組から強く恨まれていました。
同年11月、近藤勇らは伊東を招いて酒宴を開き、その帰り道の油小路七条上る辺りで暗殺。
この知らせを受けた御陵衛士の仲間が遺体を引取るために駆けつけましたが、待伏せしていた新選組と乱闘に。
元八番隊組長を務めた藤堂平助のほかに、服部武雄・毛内有之助の3名が討死しました。
京都市下京区油小路通木津屋橋上ル東側 ※クリックでGoogleマップ
西本願寺 太鼓楼
新選組は池田屋騒動の後、隊士が増えたことで京都 壬生の屯所が手狭になってきたため、慶応元年 ( 1865 ) 3月10日、屯所を壬生から本願寺 ( 西本願寺 ) へ移設。北東にあった北集会所と太鼓楼を使用しました。
明治6年 ( 1873 ) に北集会所は姫路市の本徳寺に一部移転。新選組の足跡を知るものは太鼓楼のみになってしまいました。
本願寺は長州との深い縁があり、幕府と対立していた長州藩士は本願寺を頼りにしていたから、
新選組は本願寺の境内に屯所を置くことで、長州藩士にも睨みを利かせるという一石二鳥を狙いました。
京都市下京区堀川通花屋町下る本願寺門前町 ※クリックでGoogleマップ
京都市伏見区
新選組 近藤勇 遭難の地
ちょうど, 料亭 清和荘の門前に石碑があります。
慶応三年 ( 1867 ) 12月18日、伏見奉行所に陣を移していた新選組隊長 近藤勇は二条城からの軍議の帰り道、この辺りで狙撃されました。
弾は左肩に命中したけど、致命傷にはならず、馬を飛ばして伏見奉行所へ逃れ、近藤は治療のために大坂へ赴きました。
ちなみに、清和荘さんの門をくぐって少し先には伏見 名水の「清和の井」が湧き出ています。
京都市伏見区深草越後屋敷町8 ※クリックでGoogleマップ
伏見奉行所跡
京都を出た新選組が陣を置いたのが「伏見奉行所」。
鳥羽・伏見の戦いでは、薩摩藩の本営となった御香宮神社から大砲が打ち込まれ、伏見奉行所は焼け落ちてしまいました。
実際に伏見奉行所跡と御香宮神社を訪ねてみるとわかるけど、直線距離で200M位。
距離的に近いうえに、地形的には伏見奉行所より御香宮神社の方が高い位置。
ここから薩摩藩などが大砲を打ち込めば、伏見奉行所はひとたまりもなかったことがよくわかります。
京都市伏見区西奉行町 ( 桃陵団地内 ) ※クリックでGoogleマップ
魚三楼 ( うおさぶろう ) 弾痕あと
「 鳥羽・伏見の戦い 」 の時の弾痕あと。
めちゃめちゃ、生々しい。
御所の「蛤御門の弾痕あと」も生々しいけど、魚三楼の弾痕あとは”斜め”に当たっているところが、鉄砲の威力を実感できる。
当時の魚三楼の人は、気が気でなかったでしょうね。
京都市伏見区京町3丁目187 ※クリックでGoogleマップ
京都 新選組 まとめ
京都には新選組の史跡がいっぱい。
新選組の誕生から、京都での絶頂期、そして伏見へ。
「鳥羽・伏見の戦い」で敗れた後に、大坂を経由して、江戸へ下向。
京都での新選組の足跡をたどることで、彼らの生きた幕末を感じることができます。
【新選組モデルコース】
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