「 京都 新選組 」
新選組に興味を持ったのは, 司馬遼太郎の「 燃えよ, 剣。 」を読んでから。
新選組副長 土方歳三の生きざまに引き込まれました。
そして, 京都を舞台として一瞬の煌めきを残して消えていった新選組に, 強く興味を持つことに。
ということで, 今回は, 京都にある新選組にゆかりのある地を観光めぐりします。
- 学生時代から京都大好き
- 20年以上京都・大阪で観光関係の仕事
- 今は家族の理由で大阪在住。
- その前は祇園祭の鉾町在住。
- 一児の父さん。
新選組とは
元々新選組は, 江戸から京都へ上洛する将軍 徳川家茂の警護をするために江戸で募集された浪士隊。
京都到着後に紆余曲折あって, 京都から江戸へ帰ることに承服しない浪士達が京都に残留。
その中に, 近藤勇や土方歳三, 沖田総司などがいました。
その後, 京都守護職会津藩御預かりの新選組として, 京都の治安維持のために奔走していくことになります。
新選組発足当初は, 芹沢鴨などの藩を抜け出した侍もいたけど, 近藤勇や土方歳三らは, 腕は立つけど元々は農民の出。
本当の侍ではないから, 本物よりもホンモノらしくあるために, 法度 ( 掟 ) で厳しく新選組隊士の行いを統制していきます。
この鉄の掟によって, 新選組は激動の幕末京都の治安維持のために, 力を発揮する最強の剣客集団へと変貌していきました。
京都 新選組 マップ
・京都市左京区 (緑) 金戒光明寺
・京都市東山区 (紫) 三条大橋 (新選組の刀傷)
・京都市中京区 (赤) 池田屋跡 (池田屋事件)
・壬生・島原周辺 (青) 光縁寺, 壬生寺, 新選組刀傷の角屋, 八木邸
・京都駅周辺 (茶) 新選組最後の洛中屋敷跡, 不動堂明王院 (まぼろしの屯所) , 伊東甲子太郎ほか数名殉難の地
・西本願寺 (黒) 太鼓楼
・京都市伏見区 (橙) 近藤勇 遭難の地, 伏見奉行所跡, 魚三楼 (うおさぶろう)弾痕あと
京都市の広範囲にわったって新選組関係の史跡が点在しているけど, 京都市下京区の壬生・島原や京都駅周辺にかたまっています。
京都市左京区
金戒光明寺
金戒光明寺の三重塔辺りからの眺め。
幕末の京都で, 京都守護職 会津藩 松平容保 ( かたもり ) の本陣が置かれていました。
金戒光明寺は小高い場所にあって京都市街地を見渡すことができるため, 京都守護職として市中の「 見張り 」の意味でも非常に役立ったと思います。
京都守護職御預かりだった新選組が生まれたのも, ここ金戒光明寺。
会津藩と新選組は, 深いつながりがありました。
京都市中京区 三条木屋町辺り
池田屋跡 ( 池田屋事件 )
京都で, 新選組の名を轟かせることとなったのが, 「 池田屋事件 」。
池田屋は, 三条木屋町の交差点から西へ徒歩約20秒, 三条通木屋町西入ル北側にあります。
現在は, そのもの 「 旅籠茶屋 池田屋 はなの舞 」 という居酒屋になっています。
過激志士たちが, 「 祇園祭の前の風の強い日を狙って御所に火を放ち, その混乱に乗じて中川宮朝彦親王を幽閉, 一橋慶喜 ・ 松平容保らを暗殺し, 孝明天皇を長州へ動座させる ( 連れ去る ) 」 という企てを察知した新選組が, 元治元年 ( 1864 ) 祇園祭の宵山の日, その過激志士が謀議している池田屋を急襲しました。
この時, 新選組で最初に池田屋に踏み込んだのは, 近藤勇 ・ 沖田総司 ・ 永倉新八 ・ 藤堂平助の4名。
新選組は, 宮部鼎蔵など9名を討ち取り, 4名を捕縛。 京都を火の海から救ったということで, この時を境に, 新選組の京都での名声は高まりました。
逆に, 池田屋事件で, 吉田稔麿 ・ 北添佶摩 ・ 宮部鼎蔵などの逸材を失ったために, 明治維新が1年遅れたといわれています。
池田屋はなの舞 (@ikedaya_hana) / Twitter
京都市東山区
三条大橋 池田屋事件の刀傷
三条大橋西側から二つ目の南北の擬宝珠 ( ぎぼし ) に刀傷。
これは, 上の池田屋事件の時に新選組の隊士がつけたのではないか, といわれています。
他にも三条大橋には, 知らなかったことが ! ?
壬生・島原周辺
光縁寺 山南敬助 ( 新選組副長 ) 他の墓他
山南敬助は, 陸奥国仙台藩出身で, 新選組の副長, その後総長を務めます。
山南敬助の家紋 「 丸に右離れ三つ葉立葵 」 と光縁寺の家紋が同じという縁で, 当時の良誉 ( りょうよ ) 上人と昵懇の間柄となりました。
この良誉上人は, 葬式を出すことができない困窮した人たちも分け隔てなく弔っていたため, 光縁寺の門前には, 度々, むしろに巻かれた亡骸が放置されていたそうです。
山南の紹介で, 新選組で切腹した隊士も良誉上人に弔われるように。
その中には, 山南その人も含まれてしまいました。
山南以外にも光縁寺にお墓のある新選組関係者は, 藤堂平助, 服部武雄, 松原忠司他合わせて28名。
壬生寺
壬生寺には, 京都での新選組の屯所が置かれ, 境内の池の中州にある壬生塚には, 近藤勇の胸像や芹沢鴨の墓塔があります。
壬生寺は, 正歴二年 ( 991 ) に創建。 本尊の 延命地蔵菩薩 ( 重要文化財 ) をはじめ, 多数の地蔵菩薩を祀っています。
厄除け ・ 開運の寺としても知られ, 2月の厄除け節分会は, 約900年の歴史をもつ行事。
また, 春と秋に行われる壬生狂言は, 壬生寺の代名詞ともなっています。
八木邸
八木家は, 壬生村きっての旧家でかつて壬生郷士 ( 壬生住人士 ) の長老をつとめていました。
また幕末には新選組の近藤勇, 土方歳三らの宿所となり旧壬生屯所として知られています。
建物は, 長屋門が東に開きその奥に主屋が南面して建ち, 普請願から長屋門が文化元年( 1804 ) , 主屋は文化六年の造営。
島原辺り 角屋もてなしの文化美術館 ( 角屋 )
京都 島原 新選組と幕末志士の息づく街でも書いたけど, 壬生の屯所から近かかったこともあり, また, 幕府と対立していた志士たちを探索するため, 新選組は, 京都 島原へはよくやって来ました。
角屋もてなしの文化美術館 ( 角屋 ) には, 新選組の刀傷が残されています。
JR京都駅周辺
新選組 最後の洛中屋敷跡
慶応三年 ( 1867 ) 6月、新選組が江戸幕府の直参 ( 直属の軍隊 ) になったのに合わせて新屋敷が建設されました。
位置については, 同書簡に「 七条通り下ル 」と書かれ, 元新選組二番組組長 永倉新八の手記には, 「 七条堀川下ル 」と書かれています。
ただ, 厳密な場所や規模, 建物構造などは信用に足る資料がなく不明。
同年12月の王政復古により新選組は, わずか半年でこの屋敷を離れることになりました。
現在は, 京湯元 ハトヤ瑞鳳閣という旅館になっています。
不動堂明王院( まぼろしの屯所 )
諸説あるようだけど, 京都 新選組の 「 不動堂村の屯所 」 であるとされています。
空海が, この地で見つけた石に自ら掘り込んだその不動尊を, 他の人の目に触れることを避けるため, 石棺に納め井戸深くに安置しました。
伊東甲子太郎ほか数名殉難の地 ( 本光寺 )
伊東甲子太郎は, 常陸 ( 茨城県 ) 出身で、学問もでき, 北辰一刀流の名手。
元治元年 ( 1864 ) に門弟ら7人と共に 新選組に入隊し, 参謀となりました。
しかし, 江戸幕府を敬う近藤勇と次第に反目するようになり, 慶応三年 ( 1876 ) 三月に同志15人と共に 新選組を脱退し, 薩摩藩の援助を受け, 高台寺の月真院を屯所とする御陵衛士となりました。
新選組を脱退した上, 盛んに倒幕を説いて廻ったため新選組から強く恨まれていました。
同年11月, 近藤勇らは伊東を招いて酒宴を開き, その帰り道, 油小路七条上る辺りで暗殺。
この知らせを受けた御陵衛士の仲間が, 遺体を引取るために駆けつけましたが, 待伏せしていた新選組と乱闘になり, 元八番隊組長を務めた藤堂平助のほかに, 服部武雄・毛内有之助の3名が討死しました。
西本願寺 太鼓楼
新選組は池田屋騒動の後, 隊士が増えたことで京都 壬生の屯所が手狭になってきたため, 慶応元年 ( 1865 ) 3月10日, 屯所を壬生から本願寺 ( 西本願寺 ) へ移設。
北東にあった北集会所と太鼓楼を使用していました。
本願寺は, 長州 ( 今の山口県 ) との深い縁があり, 幕府と対立していた長州藩士は本願寺を頼りにしていました。 新選組は, 本願寺の境内に屯所を置くことで, 長州藩士にも睨みを利かせるという一石二鳥を狙いました。
明治6年 ( 1873 ) に, 北集会所は姫路市の本徳寺に一部移転されたため, 新選組の足跡を知るものは, 太鼓楼のみになってしまいました。
京都市伏見区
新選組 近藤勇 遭難の地
ちょうど, 料亭 清和荘の門前に石碑があります。
慶応三年 ( 1867 ) 12月18日, 伏見奉行所に陣を移していた新選組隊長 近藤勇は, 二条城からの軍議の帰り道, この辺りで狙撃されました。 弾は左肩に命中したけど, 致命傷にはならず, 馬を飛ばして伏見奉行所へ逃れました。
近藤は治療のために大坂へ赴き, その後, 新選組の指揮は, 副長の土方歳三が執りました。
ちなみに, 清和荘さんの門をくぐって少し先には, 伏見 名水の 「 清和の井 」 が湧き出ています。
伏見奉行所跡
現在は, 団地になっています。
京都を出た新選組が陣を置いたのが,「伏見奉行所」。
鳥羽 ・ 伏見の戦いでは, 薩摩藩の本営となった御香宮神社から大砲が打ち込まれ, 伏見奉行所は焼け落ちてしまいました。
実際に, 伏見奉行所跡と御香宮神社を訪ねてみるとわかるけど, 直線距離で200M位。
距離的に近いうえに, 地形的には伏見奉行所より御香宮神社の方が高い位置にあり, ここから薩摩藩などが, 大砲を打ち込めば, 伏見奉行所はひとたまりもなかったことがよくわかります。
京阪 「 伏見桃山駅 」 から徒歩約4分, 近鉄 「 桃山御陵前駅 」 から徒歩約3分
魚三楼 ( うおさぶろう ) 弾痕あと
「 鳥羽 ・ 伏見の戦い 」 の時の弾痕あと。
めちゃめちゃ, 生々しい。
御所の 「 蛤御門の弾痕あと 」 も生々しいけど, 魚三楼の弾痕あとは “斜め” に当たっているところが, 鉄砲の威力を実感できる。
当時の魚三楼の人は, 気が気でなかったでしょうね。
京都 新選組 まとめ
京都には新選組の史跡がいっぱい。
新選組の誕生から, 京都での絶頂期, そして伏見へ。
「 鳥羽 ・ 伏見の戦い 」で敗れた後に, 大坂を経由して, 江戸へ下向。
京都での新選組の足跡をたどることで, 彼らの生きた幕末を感じることができます。
京都の歴史が好きな一人として, 一度じっくり京都 新選組の史跡をたどってみたいと思っていました。
有名なのは三条通木屋町西入にある「 池田屋事件跡 」だけど, 改めて京都にある新選組の史跡をめぐってみると, たくさんありますね。
三条大橋の擬宝珠 ( ぎぼし ) の刀傷はとても印象的。
風雨に晒されながら, 今も普通に存在していることが, 新鮮な驚き。
壬生寺は新選組の屯所があったことから有名だけど, 近くにある光縁寺はあまり知られていないかも。
新選組で副長・総長を務めた山南敬介の家紋と光縁寺の家紋が同じという縁で, 山南敬介や他の隊士のお墓があります。
新選組に興味のある人は, 一度お参りしてみてください。
京都 島原は新選組の史跡の他にも, 幕末関係の史跡, 京都市指定有形文化財に指定されている輪違屋などがあり, 一帯は石畳風で整備されているから, 京都らしい街並みを感じることができます。
2019年3月16日に, 嵯峨野線で京都駅から一駅3分の「 JR梅小路京都西駅 」ができたから, 島原へのアクセスも良くなりました。
新選組モデルコース 詳しい移動手段もあり
終わりに
「 幕末 」という言葉の中には, 京都で活躍した新選組のような佐幕 ( 幕府側 ) であれ, 薩摩 ・ 長州 ・ 土佐のような倒幕であれ, それぞれの立場で, 信じるものに命を懸けた人間達の熱き生きざまが含まれています。
立場が違えど, 新選組や坂本龍馬 ・ 西郷隆盛等が登場する幕末が, 大河ドラマなどの物語に度々採用されるのは, 人々の心に訴えかける熱い何かがあるからでしょう。
新選組は, 幕府が時代の流れに逆らえず滅びゆく中でも, 幕府に忠節を尽くし, 会津藩と共に悲劇的な結末を迎えてしまう。
それが, 今でも人々の心に響くのではないでしょうか。
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