「 京都 新選組モデルコース JR京都駅・島原 」
幕末に京都で活躍した新選組にゆかりのあるスポットは京都にたくさんあります。
今回は、JR京都駅・島原にある新選組ゆかりの地をめぐるモデルコースを案内します。
JR京都駅に着いてすぐに新選組ゆかりの地をめぐることができるのが良いところ。
新選組とは
元々新選組は、江戸から京都へ上洛する将軍 徳川家茂の警護をするために江戸で募集された浪士隊。
京都到着後に紆余曲折あって、京都から江戸へ帰ることに承服しない浪士達が京都に残留。
その中に近藤勇や土方歳三、沖田総司などがいました。
その後、京都守護職会津藩御預かりの新選組として、京都の治安維持のために奔走していくことになります。
新選組発足当初は、芹沢鴨などの藩を抜け出した侍もいたけど、近藤勇や土方歳三らは腕は立つけど元々は農民の出。
本当の侍ではないから、本物よりもホンモノらしくあるために、法度 ( 掟 ) で厳しく新選組隊士の行いを統制していきます。
この鉄の掟によって、新選組は激動の幕末京都の治安維持のために力を発揮する最強の剣客集団へと変貌していきました。
新選組 モデルコース JR京都駅・島原編 マップ
JR京都駅中央改札口(京都タワー側)⇒(徒歩)新選組 最後の洛中屋敷跡⇒(徒歩)不動堂明王院⇒(徒歩)伊東甲子太郎ほか数名殉難の地⇒(徒歩)西本願寺 太鼓楼⇒(徒歩)島原大門⇒(徒歩)輪違屋⇒(徒歩)角屋(角屋もてなしの文化美術館)⇒(徒歩)JR梅小路京都西駅⇒(JR)京都駅⇒(地下鉄・バス等)次の観光スポットへ
JR京都駅中央改札口からJR梅小路京都西駅までの全行程を歩くだけなら約36分 ( 2.9km ) ※80mを徒歩約1分で計算
色々観てまわっても2時間もあれば大丈夫と思います。
もし、最後の島原 角屋の後に嵐山や京都市役所前駅 (寺町商店街・新京極商店街・河原町三条等) 方面へ行くなら、JR梅小路京都西駅ではなくて「JR丹波口駅」へ向かった方が早い。
・嵐山へは:JR丹波口駅から「嵯峨嵐山駅」へ
・京都市役所前駅へは:JR丹波口駅から一駅目の「二条駅」下車、地下鉄東西線乗換で「京都市役所前駅」下車。寺町商店街・新京極商店街・河原町三条へ。
1. 新選組 最後の洛中屋敷跡
JR京都駅中央改札口⇒新選組 最後の洛中屋敷跡へは徒歩約6分。
慶応三年 ( 1867 ) 6月、新選組が江戸幕府の直参 ( 直属の軍隊 ) になったのに合わせて新屋敷が建設されました。
位置については同書簡に「七条通り下ル」と書かれ、元新選組二番組組長 永倉新八の手記には「七条堀川下ル」と書かれています。
ただ、厳密な場所や規模、建物構造などは信用に足る資料がなく不明。
同年12月の王政復古により新選組は、わずか半年でこの屋敷を離れることになりました。
現在は京湯元 ハトヤ瑞鳳閣という旅館になっています。
新選組 最後の洛中屋敷跡⇒不動堂明王院へは徒歩約2分。
2. 不動堂明王院( まぼろしの屯所 )
諸説あるようだけど、京都 新選組の「不動堂村の屯所」であるとされています。
空海が、この地で見つけた石に自ら掘り込んだその不動尊を他の人の目に触れることを避けるため、石棺に納め井戸深くに安置しました。
不動堂明王院⇒伊東甲子太郎ほか数名殉難の地へは徒歩約2分。
3. 伊東甲子太郎ほか数名殉難の地 ( 本光寺 )
元治元年 ( 1864 ) に門弟ら7人と共に 新選組に入隊し、参謀となりました。
しかし、江戸幕府を敬う近藤勇と次第に反目するようになり、慶応三年 ( 1876 ) 三月に同志15人と共に 新選組を脱退し、薩摩藩の援助を受け、高台寺の月真院を屯所とする御陵衛士となりました。
新選組を脱退した上、盛んに倒幕を説いて廻ったため新選組から強く恨まれていました。
同年11月、近藤勇らは伊東を招いて酒宴を開き、その帰り道に油小路七条上る辺りで暗殺。
この知らせを受けた御陵衛士の仲間が遺体を引取るために駆けつけましたが、待伏せしていた新選組と乱闘になり、元八番隊組長を務めた藤堂平助のほかに、服部武雄・毛内有之助の3名が討死しました。
伊東甲子太郎ほか数名殉難の地⇒西本願寺 太鼓楼へは徒歩約8分。
4. 西本願寺 太鼓楼
新選組は池田屋騒動の後、隊士が増えたことで京都 壬生の屯所が手狭になってきたため、慶応元年 ( 1865 ) 3月10日、屯所を壬生から本願寺(西本願寺)へ移設。
北東にあった北集会所と太鼓楼を使用していました。
本願寺は長州 ( 今の山口県 ) との深い縁があり、幕府と対立していた長州藩士は本願寺を頼りにしていました、新選組は本願寺の境内に屯所を置くことで、長州藩士にも睨みを利かせるという一石二鳥を狙いました。
明治6年 ( 1873 ) に、北集会所は姫路市の本徳寺に一部移転されたため、新選組の足跡を知るものは太鼓楼のみになってしまいました。
西本願寺 太鼓楼⇒島原大門へは徒歩約9分。
5. 島原大門
島原の入口にあるのが島原大門。
当時のままの姿で、往時を偲ばせてくれています。
島原は、よく江戸の吉原のような自ら娼妓を抱えて営業を行う遊郭と誤解されるけど、島原の営業形態は宴席の揚屋やお茶屋と、太夫や芸妓を抱える置屋とに分かれているから、現在の祇園甲部などの京都五花街と同じ。
島原は遊郭の街でなく「花街」というべきで、江戸中期には俳壇ができるなど京都文化の中心的役割を果たしていました。
島原大門⇒輪違屋へは徒歩約1分。
6. 輪違屋
輪違屋は、太夫や芸妓を抱えていた由緒ある置屋で、元禄年間 ( 1688 ~ 1704 ) の創業と伝えられています。
現在の建物は安政四年 ( 1857 ) に再建されたといわれていますが、その後の増改築で明治四年 ( 1871 ) にはほぼ現在の姿になりました。
一階南半分の居室部分と、一階北半分及び二階の客室部分からなります。
中でも二階の傘の間と紅葉の間が主要な座敷で、襖や壁の斬新な意匠は素晴らしいと言われています。
輪違屋は建築的に質が高く、また古い置屋の遺構として非常に貴重。
昭和59年6月1日に、京都市指定有形文化財に指定されました。
※通常は内部を見ることはできません。
輪違屋⇒角屋へは徒歩約2分。
7. 角屋
角屋(すみや) は、寛永十八年 ( 1641 ) 島原開設当初から続く揚屋(お茶屋) 。
島原の角屋をはじめとする揚屋は遊宴だけでなく和歌、俳諧の文芸やお茶などの文化サロンとしての役割もありました。
角屋の建物は昭和27年に重要文化財に指定。
円山応挙・与謝蕪村などの当時の一流画家の作品を数多く所蔵し、蕪村の大作「紅白梅図」も重要文化財の指定されています。
幕末には、新選組の宴会があったり、西郷隆盛や久坂玄瑞などが軍用金調達のために、豪商を招いて会議を行ったりもしました。
壬生の屯所から近かかったこともあり、また、幕府と対立していた志士たちを探索するため、新選組は京都 島原へはよくやって来ました。
角屋もてなしの文化美術館
現在角屋は「角屋もてなしの文化美術館」として一般に公開されています。
ちなみに、新選組局長だった芹沢鴨は文久3年 ( 1863 ) 9月18日、角屋で行われた宴会後に新選組屯所で暗殺されました。
角屋もてなしの文化美術館(角屋)には、新選組の刀傷が残されています。
開館日・入館料等は下記を参照。
角屋⇒JR梅小路京都西駅へは徒歩約6分。
京都 新選組モデルコース JR京都駅・島原 まとめ
JR京都駅の中央改札口(京都タワー側)から自然な流れ(徒歩)でJR京都駅周辺・島原にある新選組ゆかりの地をまわれます。
島原の近くには、京都水族館や京都鉄道博物館、梅小路公園があるから、合わせて行ってみてもいいですね。
JR梅小路京都西駅 (JR京都駅から1駅目) から島原を最初にまわってJR京都駅で終わるのもOK。
JR京都駅から地下鉄や市バスで京都の別の観光スポットへ行くのもありですね。
JR京都駅中央改札口からJR梅小路京都西駅までの全行程は2.9km ( 歩くだけなら約36分 ) 。
しんどい人はレンタサイクルもオススメ。
【その他の新選組モデルコース】
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