「 千本釈迦堂 」は、
本堂は鎌倉時代創建で、
京都では殆どの神社仏閣が
被害を被った 応仁の乱 でも、
西軍の勢力内にありながらも、
焼け落ちることはありませんでした。
なぜ千本釈迦堂が助かった?
なぜかというと、千本釈迦堂は、
山名宗全の父親の「 氏清 」を
供養するお堂があるお寺だったから。
山名宗全は東軍の細川勝元にも
「 千本釈迦堂 」だけは
戦禍に巻き込まないでほしい。
とお願いしたそうです。
そんな都合の良い願いが
通ったのかどうかは疑問ですが、
千本釈迦堂の本堂は
実際に戦禍を免れました。
おかめ塚
千本釈迦堂が
建立されることになり、
長井飛騨守高次という一流の棟梁が
責任者に選ばれました。
建設は順調に進んでいましたが、
高次は、
信徒寄進の大事な4本の柱の1本を
寸法より短く切ってしまいました。
事の重大さに思い悩み、
落ち込んでいる夫を見かねた
妻の阿亀がアドバイスをします。
「 他の3本も
同じように短く切って、
切ったその上に桝組を
載せればよいのでは。 」
桝組1例
その発想転換アドバイスに、
” 目から鱗 ”の高次でした。
見事にその難局を乗り越え、
千本釈迦堂は無事に完成しました。
しかし、 その完成を阿亀が
見ることはありませんでした。
素人の自分のアドバイスで、
総棟梁の高次が仕事をこなした
ということが世間に
知れ渡ることを危惧し、
完成前に、
「 この身は夫の名声のために
捧げましょう。 」との決心で、
自刃してしまいました。
高次は上棟の日に、
亡き妻のお面を 御幣に飾り、
お堂の完成を祝うと共に、
妻の冥福を祈りました。
この話を伝え聞いた人々が、
菩提を弔うために、
境内に宝筐院塔を建て、
これが「 おかめ塚 」と
呼ばれるようになりました。
主に京都では上棟御幣に
おかめのお面がつけられています。
これは、 阿亀の徳にあやかり、
” 火災除け ”と” 家内安全と繁栄 ”を
願って始められたものです。
阿亀(おかめ)桜
そのおかめ塚の前にあるのが阿亀桜。
境内でひときわ目立つ存在です。
おかめに見守られながら
美しい姿を見せてくれています。
千本釈迦堂( 大報恩寺 )
正式には、
瑞応山という大報恩寺といいます。
千本釈迦堂の名前で親しまれています。
承久三年( 1221 )、
藤原秀衡( ひでひら )の孫の
義空( ぎくう )上人が、
この地に小堂を建てたのが
始まりといわれています。
応仁の乱の戦禍も免れた
本堂( 釈迦堂 )は、
京都市に現存する最古の仏堂遺構で、
国宝に指定されています。
堂内には、
行快作の本尊釈迦如来坐像を安置、
数多くの文化財を所蔵しています。
毎年、
二月には、 おかめ福節分会、
七月には、 陶器供養、
八月には、 六道まいり、
十二月には、 大根炊きと、
多彩な行事が営まれ、
多くの人で賑わいます。
北野経王堂願成就寺
足利三代将軍義満が、
山名宋全の父 氏清が起こした
「 明徳の乱 」を討伐した後で、
敵味方を弔うために、
応永八年( 1401 )、
三十三間堂より大きい大堂を建立し、
「 北野経王堂願成就寺 」
と名付けました。
毎年十月の十日間にわたって
「 北野経会 」と呼ばれる
京都最大の仏事で供養していました。
その後、
江戸時代に入ると荒廃が酷くなり、
寛文十一年( 1671 )に
解体縮小され小堂になり、
解体された木材で、
縮小復元されたのがこのお堂です。
お堂の前には、
山名氏清のお墓があります。
京都 神社仏閣 関連リンク
所在地 | 京都府 京都市 上京区 七本松通 今出川上ル 上ル 下ル 西入 東入について |
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電話 | 075 - 461 - 5973 千本釈迦堂ホームページ |
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