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京都【阿弥陀寺】信長忌 6/2 信長が本能寺で使用した槍先等も公開

阿弥陀寺 信長忌 / 京都観光旅行ガイド

寺町通今出川上るにある「阿弥陀寺」。

織田信長・信忠親子のお墓があるお寺です。

目次

阿弥陀寺 信長忌

2025年6月2日
場所阿弥陀寺
時間9:30~12:00(10:00から法要 10時半受付締切) 法要・住職講話・本廟案内
特別拝観冥加料3,500円(水塔婆供養料3,000円・護持協力金500円)
予約受付100名(5月末までに電話で予約)※空席あれば当日受付可

12:00~15:00(14時半受付締切)
一般拝観(予約不要)
一般拝観冥加料1,500円(護持協力金500円を含む) 
13時・14時に30分ほど講話あり
料金上記
連絡先075-231-3538
「信長忌」の法要に合わせ、普段非公開の本堂内・寺宝が公開。本尊や天井絵をはじめ、信長公木像・位牌や、同織田家中討死衆合祀位牌。信長が本能寺にて使用した槍先、明智光秀や秀吉の書状等の寺宝も見ることができる(本堂内は撮影厳禁)

※本堂内での写真撮影は厳禁
※法要中の本堂への出入りは不可

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阿弥陀寺について

阿弥陀寺 / 京都ブログ ガイド

蓮台山という浄土宗の寺院 。本尊は丈六の阿弥陀如来。

阿弥陀寺は、天文年間(1532~1554)に清玉上人によって創建されました。

清玉上人は織田家とも深い親交があり、天正十年(1582)六月二日の本能寺の変の時、本能寺へ駆けつけ、織田信長・ 信忠父子及び家臣百有余名の遺骸を阿弥陀寺に埋葬したといわれています。

本堂には、 織田信長・信忠父子の木像等が安置されています。


阿弥陀寺 織田信長・信忠の墓所

信長親子の墓 / 京都ブログ ガイド

墓地に入って正面に織田信長・信忠の墓があります。

阿弥陀寺7 / 京都ブログ ガイド

側には森蘭丸の墓や本能寺・二条城において討死した織田家臣の暮石・供養塔が並び祀られている。

森蘭丸は安土桃山時代の武将で、織田信長の※近習。本能寺の変で織田信長と2人の弟と共に討死しました。※主君のそば近くに仕える者。

阿弥陀寺 アクセス

阿弥陀寺の地図

「京阪出町柳駅」から徒歩約11分

京都市上京区寺町通今出川上ル鶴山町14

京都市上京区の寺町通今出川上るにあります。

近くの観光スポット

近くの観光スポット

出町桝形商店街

阿弥陀寺から 徒歩約4分のところにあるのが、「出町桝形商店街

規模は小さいけど、地元の京都人に支持されている生活に欠かせない商店街。

鴨川デルタ

高野川賀茂川が合流して、鴨川になるところ。

突き出た岬のようになっていて、三角形の形をしていることから「鴨川デルタ」と呼ばれています。京都市民の憩いの場の一つ。

阿弥陀寺から徒歩約6分。

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本満寺

阿弥陀寺から徒歩約2分。

美しい枝垂れ桜が見られることで有名なのが、「本満寺

枝がお椀をひっくり返したように、丸く放射状に下へ垂れています。

桜の下から枝垂れを眺められるのも本満寺のしだれ桜の嬉しいところ。まるで桜のシャワーが降ってくるような感覚。

山中鹿之助のお墓があることでも知られています。

幸神社

阿弥陀寺から徒歩約4分。

平安京遷都前からの歴史ある社が、 「幸神社(さいのかみのやしろ)」。住宅に囲まれながら、ひっそりと佇んでいます。 周りは住宅だけど、一歩社の中に足を踏み入れると、厳かな空気が漂います。

相国寺

阿弥陀寺から徒歩約4分。

現在は4万坪ですが、創建当時は132万坪 (4363636.364㎡) 。甲子園球場(総面積:約38,500m²)のおよそ113個分。(出典:阪神甲子園球場Webサイト)

現在も境内の中を横切っているのは 「上立売通」 。歩行者と自転車のみが通行可能で生活道路になっています。

御霊神社(上御霊神社)

阿弥陀寺から徒歩約5分。

御霊神社(ごりょうじんじゃ)は、「応仁の乱」の発端の場所として有名。駅からは近いけど、京都の中心部から少し離れているせいか観光客は少なめ。静かな空気の中で、歴史の息吹を感じられます。

応仁の乱 なぜ起こってしまったのか?

寺町通

阿弥陀寺のある寺町通はその名の通り、「お寺」がたくさんあるので、名付けられました。織田信長・信忠父子が非業の死を遂げてしまった後に天下を統一したのが秀吉。

秀吉は、応仁の乱などで荒廃していた都の整備の一環として、外敵や洪水などから都を守るために、京都を「ぐるっと」囲む土塁(御土居)の建設に着手。

その土塁は、東は鴨川、西は天神川、南は九条辺り、北は鷹ケ峯に沿って築かれ、土塁の内側を洛中、外側を洛外と呼び、要所には七口といわれる出入口を設けました。 鞍馬口、丹波口などの地名はその名残。

そして、都を囲む御土居の建設と並行して行われたのが、京都各所に点在していたお寺を、※東京極大路(ひがしきょうごくおおじ)に集めること。現在の寺町通です。

お寺を南北の通りに集めたのは、東から京都へ攻めてくる軍勢に対する防衛の意味があったよう。寺院は 応仁の乱でも軍勢の本陣などに利用されました。

戦時には城とまではいきませんが、塀で囲まれており一定の防御力もあったと考えられます。また、税の徴収に便利であったからともいわれています。

※平安京の昔、寺町通の三条通より北は東京極大路(ひがしきょうごくおおじ)と呼ばれていました。「京極」とは”京の果て”という意味。

当時この辺りは鴨川の河原で、「京極」から東は、人の住むところではないと考えられていたようです。

ちなみに、西の”京の果て”は、「西京極」。 阪急電鉄京都線の駅名にもなっています。

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