「 文子天満宮 」
祭神として菅原道真を祀り, ※洛陽天満宮二十五社のひとつに数えられています。
※京都にある天満宮で、特に菅原道真にゆかりの深い25社。
文子天満宮 天神信仰発祥の神社
社伝によると, 大宰府に左遷された菅原道真は, 延喜 ( えんぎ ) 三年 ( 903 ) に、五十九歳で亡くなりましたが、
没後、道真の乳母であった多治比文子 ( たじひのあやこ ) は、「 われを右近の馬場に祀れ 」との道真の託宣 ( たくせん ⇒ お告げ ) を受けたそうです。 しかし, その時の文子は貧しくて, 社殿を建立することができませんでした。
何とかしたいと考えた文子は, その当時住んでいた右京七条二坊の自宅に小さな祠を建てて, 道真を祀ったといわれています。
これが文子天満宮の起源で, つまりは, 天神信仰発祥の神社 といわれ, 北野天満宮 の前身とも伝えられています。
それ以後, 天明, 安政, 元治の大火で類焼しましたが, その都度再建されました。
現在の社殿は, 大正七年 ( 1918 ) に造営されたもの。
文子天満宮 招霊 ( おがたま ) の木 ( モクレン科 )
鳥居向かって右側に見えるのが, 「 招霊の木 」
天照大神 ( あまてらすおおみかみ ) が, 天岩戸に隠れて世界が暗闇になったとき, 天細女命( あめのうずめのみこと ) は, この木の枝を持って, 岩戸の前で踊ったと伝えられています。
招霊の木を持って踊ったことが, 「 ※ 神楽鈴 」の起源といわれています。 そして, 神楽舞の鈴は招霊の木の実をかたどったもの。
また, 三月頃に咲く招霊の木の花が, 常陸宮家 ( ひたちのみやけ ) の紋章で, 殿下の「 おしるし 」です。
文子託宣図
菅原道真の生涯と天神信仰の成立と展開を描いた「 天神縁起絵巻 」には, 多治比文子が描かれています。
北野天満宮の文子託宣図
大宰府天満宮の文子託宣図
日本全国にある天満宮には, さまざまな「 天神縁起絵巻 」が伝えられていますが, その中には必ず, 「 文子託宣図 」が含まれています。
文子天満宮 菅原道真 腰掛石
本殿向かって右側に, 菅原道真が大宰府へ左遷されるときにこの場所に立ち寄って, 腰掛けたといわれる石があります。
文子天満宮 アクセス
地下鉄「 五条駅 」から徒歩約3分, 京阪「 五条駅 」から徒歩約6分, JR「 京都駅 」から徒歩約12分。
間之町通 ( あいのまちどおり ) 花屋町下ルにあります。
文子天満宮の関連情報
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北野天満宮について
北野天満宮とは, 今は, 学問の神様 菅原道真 ( すがわらのみちざね ) を祀る神社。 京都で学業成就 ・ 合格祈願のご利益といえば, 「北野天満宮」。 というか日本全国で。 日本中に約12000社ある菅原道真を祀る天満宮の総本社です。
京都に来る修学旅行生だけじゃなく, 子供さんやお孫さんの学業成就 ・ 合格祈願で訪れる方もいるんじゃないでしょうか。
学問の神様になったのは江戸時代
元々は, 怨霊と思われていた菅原道真の魂を鎮めるために, 北野の地に神様としてお祀りしたたのが北野天満宮の始まり。 その後は京の都を守護する神様となっていきました。 それが, 学問の神様として崇められるようになったのは, 江戸時代になってから。
道真は学者の家系に生まれ, 小さいころからめちゃめちゃ頭が良かったそう。 江戸時代に普及した寺子屋に, 頭の良かった道真が「 天神さま 」として祀られたり, 道真の姿を描いた掛け軸などが掲げられたりすることによって, 次第に, 『 学問の神様 』として崇められていったと考えられています。
学業成就 ・ 合格祈願の他にも, 芸道上達もご利益があります。
菅原道真とは
異例の大出世
じゃあ, なんで, そんな頭のめっちゃ良い菅原道真が怨霊となってしまったのか ? ここからは, 道真の人生をたどっていきます。
時は, 桓武天皇が平安京へ遷都 ( 794年 ) してから, だいたい100年くらいの頃。 学者の家系に生まれた道真は小さいころから頭がよく, 詩や歌も得意だったそう。
朝廷で, 順調に出世していき, 時の宇多天皇の目に留まり, 厚い信頼を得て, 家格を超えた要職にも就くようになりました。
当時は, 家柄 ・ 身分がめっちゃ幅を利かせていたんでしょうね。 しきたりや慣習を超えて, 異例の出世をしていったようです。
身分 ・ 家柄を超えて要職に就くようになった菅原道真。 この当時, 皇室の一族である藤原氏が朝廷内で権勢を振るっていましたが, 宇多天皇は藤原氏を抑える意味でも道真を重用したよう。
宇多天皇が, 醍醐天皇へ天皇の位を譲った後でも, 道真は昇進を続け, 昌泰2年 ( 899 ) , ついに右大臣にまで昇進して, 左大臣の藤原時平と肩を並べるまでになりました。
藤原氏との勢力争い
しかし, 道真の身分を超えた ( 家格を超えた ) 昇進に嫉妬する者や, 藤原氏との政治対立などが顕在化。
現代でもありますよね。 時の権力者に認められて大抜擢されるけど, 周りから妬みや恨みを受けてしまうってこと。 道真もそれ。
強力なライバルへと成長してきたことに大きな危機感を持っていた藤原陣営によって, ある噂が流されます。
道真が, 醍醐天皇を退位させて, 自分を取り立ててくれた宇多天皇の第三皇子の斉世親王 ( ときよしんのう ) を新しい天皇にしようと企てている ! というものでした。
この噂が真実味を帯びているのは, 道真は斉世親王の元へ自分の娘を嫁がせていたので, 娘婿を天皇にすることで, 自分の権力基盤を絶対的なものにしようとしている。 という印象を与えていること。
無実の罪で左遷
この噂が元で, 道真は罪に問われて, 九州の大宰府へ左遷されてしまいました。
無実の罪で左遷される道真は, さぞ悔しかったことでしょう。
そして, 大宰府への左遷から2年後の延喜3年 ( 903 ) 2月25日に, 失意のうちに大宰府で亡くなりました。 享年59。
菅原道真が亡くなった後
最大のライバル 菅原道真が居なくなって, 藤原時平とその一門は, ホッと一息。 これからは藤原氏の思うがままって思っていました。 ところが, そうはいきませんでした。 人間なら対処できるだろうけど ・ ・ ・ ・ 。
道真の死後, 京の都では災害や落雷の被害が相次いだり, 道真を失脚させた関係者が次々に亡くなりました。
延喜9年 ( 909 ) には, 藤原時平自身が39歳の若さでで病死。 延長8年 ( 930 ) には, 平安京の内裏 ( だいり ) にある清涼殿が落雷を受けて, 多くの死傷者が出た上に, 3ヶ月後に醍醐天皇も崩御。
都の人々は, これらが道真の祟りだと恐れおののき, 天暦元年 ( 947 ) 菅原道真の魂を鎮めるために, 北野の地に神様として祀ることになりました。 それが, 今の「 北野天満宮 」。
菅原道真は, 元々は学問の神様ではなく, なんと, ” 怨霊 ” だったんです ! !
くわばらくわばら 由来
菅原道真は, 無実の罪で京の都から博多の太宰府に左遷され, 2年後にそこで失意のうちに亡くなった。ということは前に書きました。
そして, 菅原道真の死後に, 京の都では度々落雷の被害も出たそう。 延長8年 ( 930 ) には, 平安京の内裏 ( 天皇の住まい ) にある清涼殿にも雷が落ちて, 多くの死傷者が出てしまいました。
当時の人々は, 口々に無実の罪で左遷され亡くなってしまった「 道真の祟りや ! 」と恐れおののきました。 そして, ある事実から落雷を避けるために, 「 くわばらくわばら 」と唱えるようになったんです。
くわばらくわばら 由来は, 菅原道真と京都 桑原町にあり ! !
菅原院天満宮神社
京都御所のすぐ西, 烏丸通下立売下ルにあるのが, 「 菅原院天満宮神社 」。 この地に菅原家の邸宅があり, 菅原道真の生まれた場所と言われています。 ※菅原道真の出生地には諸説あり
境内には, 「 菅公御産湯の井 」という湧水があります。 毎日飲んでいたら, 頭がよくなりそうですね (笑)
京都 神社仏閣 関連リンク
京都 ご利益 めぐり
所在地 | 京都市下京区間ノ町通花屋町下る天神町400 上ル下ル西入東入について |
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電話 | 0 7 5 - 3 6 1 - 0 9 9 6 文子天満宮ホームページ |
※ 参拝時間 ・ 受付時間等は変更されることがありますので, 神社にご確認ください。 万が一, 間違っていたとしても, 責任は負いかねます。 予めご了承ください。
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