水火天満宮 枝垂桜 2020
「 水火天満宮 枝垂桜 2020 」
おそらく京都でしか体験できないであろう小川通りにある「 茶の湯の雰囲気を感じる場所 」からすぐ近く。 天神公園の隣に佇むのが ” 日本最初の天満宮 ” と伝わる水火天満宮 ( すいかてんまんぐう ) 。 早咲きの紅枝垂桜が迎えてくれます。
水火天満宮 枝垂桜

2020年3月24日 撮影
水火天満宮の境内にある垂れ桜も早咲き。 こじんまりとした神社の境内いっぱいに咲き誇ります。

2020年3月24日 撮影
ここの垂れ桜の良いところは, とても身近なところと花の色。
樹の高さがそれほどでもないので, 手の届くところで美しい桜の花びらを見ることが出来ます。 そして, 可憐なピンク色が本当に美しい ! !

2020年3月24日 撮影
境内が広くないので, 観光客の混雑を避けるために朝の7:30頃に行きました。 そのため写真を撮るには少し暗かったよう。 本当は下記のように見事なピンク色。

2019年春 撮影
水火天満宮 について

「 天満宮 」といえば、 菅原道真ですが、「 水火天満宮 」の祭神も道真公。
由緒書 ・ 家系図には、
「 洛陽一条下り松の霊地に雨水雷火の難を消除の守護神てして菅公を祭る為に、 延暦寺の尊意僧正に勅命ありし、 日の本最初の天満宮の勧請の最初なり 」
とあります。
都の水害 ・ 火災を鎮める為に、 第六十代醍醐天皇に命じられた、 道真の師でもあった延暦寺の尊意僧正 ( 第十三代天台座主法性坊尊意僧正 ) によって延長元年 ( 923 ) 六月二十五日「 水火の社天満大神 」という神号の勅許を醍醐天皇から賜り、 水火社天神天満宮として、 菅原道真の神霊を勧請し建立。
水火天満宮が「 日本最初の天満宮 」という所以は、「 天皇の勅命で天満宮を建立したこと 」、 及び「 初めて菅原道真の神霊を勧請したこと 」の2点。
アクセス

「 天神公園前 」バス停下車すぐ。

バス停の名前にもなっている「 天神公園 」のすぐ横にあります。
近くの桜スポット
本法寺

オススメの桜スポット。
市バスでしかアクセスできないので今のところ、 観光客も多くなく、 落着いて桜を楽しめます。派手さはありませんが、 1本1本の桜の配置に意味があり、 心に残る風景を見ることができます。
水火天満宮から徒歩約2分。
雨宝院

御室桜と同じ品種の背丈の低い桜がこじんまりとした境内に咲き誇ります。 ほぼ閉ざされた空間に立っていると、 桜の花で上から蓋をされ、 包み込まれているように感じます。
この感覚は他のどの場所でも体験不可。 「 雨宝院 」 でしか体験できません。
この素晴らしいお寺での注意点は、 広くないこと。 なので、 開門直後の9時の訪問がオススメ。 京都の他の桜スポット以上に気にとめておいたほうが無難です。
水火天満宮から徒歩約10分。
ちょっと, 寄り道。
小川通

本法寺 の前の小川通には、 表千家の不審菴、 裏千家の今日庵が並んであります。そのためと思いますが、 この辺りだけ雰囲気が違います。石畳で道が整備され、 町並みと共に、 京都らしい雰囲気を醸し出しています。
花見小路の人混みが嫌だという人には、 ここはオススメ ! ! ! ! 観光客が少なく、 ゆったり静かに、 京都に浸れます。
水火天満宮から徒歩約2分。
西陣
応仁の乱の一方の中心人物 山名宗全の勢力が、 もう一方の細川勝元の勢力と戦うために、 その軍勢の ” 陣地 ” を造ったことと、 堀川通より ” 西 ” に位置していることから名づけられました。 山名宗全の邸宅跡などの 応仁の乱 の史跡があります。
水火天満宮から徒歩約5分。
近くのラーメン屋
彦さく
「 鶏骨白湯こってり 」 はかなり美味しく、 このメニューだけでも店がやっていけそうな気がしますが、「 塩ラーメン 」も旨いです。
店員さんも礼儀正しく、 気持ちの良い接客。 ラーメンの味も良いし、 オススメのお店。
水火天満宮から徒歩約8分。
彦さく
水火天満宮 枝垂桜 2020 まとめ

身近な距離で綺麗なピンク色の垂れ桜を楽しむことが出来ます。 神社仏閣にある早咲きの桜なので貴重な桜スポットのひとつ。
ただ, 注意が必要なのは, 境内が狭いこと。 たくさん人がいると人口密度が酷いです (笑) そんなときは, 花びらのアップくらいしか撮れません。 なので, 出来れば朝早くか午前中に行くことをオススメします。
あまり早く行き過ぎると, 私みたいに写真の腕がないとうまく写せないけど (笑)
関連情報
北野天満宮について

日本中に約12000社ある菅原道真を祀る天満宮の総本社。
菅原道真の急激な出世に危機感を抱いていた ※藤原時平の讒言によ
その後、 京の都では災害が相次いだり、 道真を失脚させた藤原時平やその関係者が次々に亡くなったために
※ 誰が讒言したかについては諸説あり。
文子 (あやこ) 天満宮

菅原道真の没後 ( 北野天満宮ができる前 ) に、 道真の乳母であった多治比文子 ( たじひのあやこ ) が「 われ ( 道真 )を右近の馬場に祀れ 」との道真の託宣 ( たくせん ⇒ お告げ ) を受けたそう。
しかし、 その時の文子は貧しく、 社殿を建立することができなかったので、 右京七条二坊の自宅に小さな祠を建てて、道真を祀ったといわれています。 これが、 北野天満宮の前身ともいわれています。
菅原道真
学者の家系に生まれた道真は小さいころから頭がよく 、 詩や歌も得意だったそう。
朝廷で、 順調に出世していき、 時の宇多天皇の厚い信頼を得て、 家格を超えた要職にも就くようになりました。 そして、醍醐天皇のときに右大臣にまで昇りつめました。
「 美しや 紅の色なる 梅の花 阿呼 ( 僕 ) が顔にも つけたくぞある 」
自宅の庭に咲き誇る梅の花を見て、 五歳の時に菅原道真が詠んだ詩。
菅原院天満宮神社

上記の詩を詠んだ時に住んでいたとされる、 菅原道真生誕の菅原家 邸宅跡にあるのが、 菅原院天満宮神社。
※菅原道真の出生地には諸説あり
なぜ、 菅原道真は左遷されてしまったのか?

身分を超えて要職に就くようになった菅原道真。 この当時、 皇室の一族である藤原氏が朝廷内で権勢を振るっていましたが、宇多天皇は藤原氏を抑える意味でも道真を重用したよう。
宇多天皇が、 醍醐天皇へ天皇を譲った後でも、 道真は昇進を続け、 昌泰2年 ( 899 )、 右大臣に昇進して、 左大臣の藤原時平と肩を並べるまでになりました。
しかし、 道真の身分を超えた ( 家格を超えた ) 昇進に嫉妬する者や、 藤原氏との政治対立などが顕在化。
道真が、 醍醐天
に新しい天皇になってもらおうと画策した
道真はそのことを罪に問われて、 九州の大宰府に左遷されてしまうことに
※1 道真の三女 寧子は斉世親王のお妃 ( 嫁 )
※2 誰が讒言したかについては諸説あり。
所在地 : 京都府 京都市 上京区 堀川通 上御霊前上ル 扇町 722 – 10 ( 堀川通寺ノ内上ル )
電話 : 0 7 5 - 4 5 1- 5 0 5 7
※ 参拝時間 ・ 受付時間等は変更されることがありますので、 神社にご確認ください。 万が一、 間違っていたとしても、 責任は負いかねます。 予めご了承ください。
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