菅原院天満宮神社
「 菅原院天満宮神社 」
菅原院天満宮神社は、 京都御所のすぐ西、 烏丸通下立売下ルにあります。
この地に菅原家の邸宅があり、 菅原道真の生まれた場所と言われています。

※ 諸説あるようです。
菅大臣神社( 京都市下京区 )説、 菅原院天満宮神社( 京都市上京区 )説、 吉祥院天満宮( 京都市南区 )説、 菅生天満宮( 堺市美原区 )説、 菅生寺( 奈良県吉野郡吉野町 )、 菅原天満宮( 島根県松江市 )説、 奈良市菅原町周辺説、 などなど、 ビックリするくらいの数ですね。 ( Wikipedia )
菅原道真生誕の地
菅公御産湯の井

門をくぐって右へ進むと 「 菅公御産湯の井 」 があります。

結構、 豊富に湧き出しています。
京都の地下には、 琵琶湖と同じくらいの水量の地下水があるといわれています。
菅公産湯の井戸水

持ち帰り専用の蛇口。
毎日飲んでいたら、 頭がよくなりそうですね (笑)
「 美しや 紅の色なる 梅の花 阿呼が顔にも つけたくぞある 」
菅原院の庭に咲き誇る梅の花を見て、 五歳の時に菅原道真が読んだ詩。
本殿

菅原道真と共に、 父是善 ( これよし ) 、 祖父清公 ( きよきみ ) をお祀りしています。
なぜ、 菅原道真は左遷されてしまったのか ?

道真は小さいころから頭がよく、 詩や歌も得意だったそうです。
朝廷で、 順調に出世していき、 時の宇多天皇の厚い信頼を得て、 身分を超えた要職にも就くようになりました。
この当時、 皇室の一族である藤原氏が朝廷内で権勢を振るっていましたが、 宇多天皇は、 藤原氏を抑える意味でも道真を重用したようです。 宇多天皇が醍醐天皇へ天皇を譲った後でも、 道真は昇進を続け、 昌泰2年( 899 )、 右大臣に昇進して、 左大臣の藤原時平と肩を並べるまでになりました。
しかし、 道真の身分を超えた( 家格を超えた )昇進に嫉妬する者や、 藤原氏との政治対立が顕在化。
※1 藤原時平によって、道真が時の醍醐天皇を退位させ、宇多天皇の皇子( 息子 )・※1 斉世親王に新しい天皇になってもらおうと画策したと、※2 讒言されました。
※1 誰が讒言したかについては諸説あります。
※2 道真の三女寧子は斉世親王のお妃( 嫁 )
※3 ありもしないことを作り上げたりして、 その人のことを目上の人に悪く言うこと。
そのことを罪に問われて、 九州の大宰府に左遷されてしまいました。
そして、延喜3年( 903 )2月25日に、 大宰府で亡くなりました。 享年59。
「東風( こち )吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」
は、 あまりに有名。
梅丸大明神

ご利益は、 癌封じ ・ はれもの等の病 ・ 皮膚病 ( アトピー等 ) 。
戸隠社

祭神は、 戸隠大神。 ご利益は、 歯痛止め、 口腔関係の病の除け。
祭神は、 九頭竜 ( くずりゅう ) 大神。
ご利益は、 良縁 ・ 雨乞い。
アクセス
地下鉄「 丸太町駅 」から徒歩約2分。
烏丸通下立売下ルにあります。
関連情報
北野天満宮について
日本中に約12000社ある菅原道真を祀る天満宮の総本社。
菅原道真の急激な出世に危機感を抱いていた※藤原時平の讒言によ
その後、 京の都では災害が相次いだり、 道真を失脚させた藤原時平やその関係者が次々に亡くなったために
※諸説あり
文子天満宮
菅原道真の没後 ( 北野天満宮ができる前 ) に、道真の乳母であった多治比文子 ( たじひのあやこ ) が「 われ ( 道真 ) を右近の馬場に祀れ 」との道真の託宣 ( たくせん ⇒ お告げ ) を受けたそう。
しかし、 その時の文子は貧しく、 社殿を建立することができなかったので、右京七条二坊の自宅に小さな祠を建てて、 道真を祀ったといわれています。 これが、北野天満宮の前身ともいわれています。
所在地 : 京都府 京都市 上京区 堀松町 408
電話 : 0 7 5 - 2 1 1 - 4 7 6 9
※ 参拝時間 ・ 受付時間等は変更されることがありますので、 神社にご確認ください。 万が一、 間違っていたとしても、 責任は負いかねます。 予めご了承ください。
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