牛若丸と弁慶が戦った場所は今の五条大橋に非ず!決闘は別の場所で、しかも2回!!
「 牛若丸と弁慶の決闘 」
日本史をかじった人なら, 誰でも知っているだろう「牛若丸と弁慶の決闘」。
五条大橋で起こったといわれています。
私もそう思っていました。
ちなみに, 今の五条大橋じゃないけれど。 それは後程として。
問題の決闘。 「義経記 ( ぎけいき )」 では五条大橋じゃなくて, 別の場所で起こったことになっています。 しかも2回 ! !
牛若丸と弁慶の決闘 義経記では
義経記では, 牛若丸と弁慶の決闘は五條天神宮と清水寺 ( 清水の舞台 ) で起こったと書かれています。
それでは, 詳しく見ていきましょう。
五條天神宮は松原通西洞院西ルにあります。
北側には松原京極商店街が通っていて, デフォルメした牛若丸と弁慶のノボリがたくさん立っています。
さすが決闘の場所として, 牛若丸と弁慶押しですね (^^)
牛若丸と弁慶 最初の決闘
比叡山から飛び出した弁慶が999本の刀を奪い取り, 1000本目の相手として, 出会ったのが, 牛若丸。
場面は, 五條天神宮。
弁慶が五條天神宮の辺りを通る腰に刀を差している男を待っていると, 向こうから立派な刀を差した若者が歩いて来ました。
牛若丸は背も低く弱々しく見えたから, 体の大きい自分がちょっと凄めばすぐに刀を差し出すだろうと弁慶は考えました。
「そこのもの, ここを無事に通りたくば, その刀を置いて行け。 さもなくば, ただではすまんぞ ! 」
ゆっくりと, そして, 決定的にいい放ちました。
牛若丸は「 あー, 近頃, 都で刀を奪っている輩はこやつか。 」と思いながら, 全く慌てる素振りも見せません。
自分が脅せばすぐに刀を置いて逃げ出すと思っていた弁慶は, ちょっと以外に思いながらも「 その刀をよこせ。 」もう一度言い放ちます。
「そんなに欲しくば, 力ずくで奪ってみよ。」
この言葉と共に弁慶が轟然と斬りかかるも, 牛若丸がひらりとかわして, 相手になりません。
それもそのはず, 牛若丸は鞍馬寺で伝説の武道の達人 鬼一法眼 ( きいちほうげん ) に鍛えられていたのだから。
挙げ句の果てに, 弁慶は牛若丸に自分の刀を奪われてしまう始末。
結局, この時は, 最終的な決着には至ってないんです。
つまり, 弁慶が牛若丸の家来になったわけじゃない ! !
牛若丸が弁慶を軽くいなして, 立ち去りました。
ところが, 収まりがつかないのが, 弁慶。 悔しくて悔しくてしょうがありません。
牛若丸と出会った五條天神宮のある五條通 ( 今の松原通 ) は, 清水寺への参詣道にもなっていたことから, 弁慶は牛若丸が清水寺へ行くつもりだったのではないかと予想します。
牛若丸と弁慶の決闘 2回目の出会い
次の日の夜, 弁慶は清水寺の入口の門前に立っていました。
でも, 待てども待てども, 牛若丸は現れません。
自分の予想は間違っていたのか ?
もう帰ろうか, そう思い始めた矢先に, 聞き覚えのある笛の音が耳に飛び込んできました。
「 昨日聞いた笛の音だ ! ! 」弁慶は, 震える心を押さえながら, 立っていました。
やがて, 昨日見た子憎たらしい顔が目の前に。
弁慶が, 話しかけます。 「 お前は, 昨日, 五條天神宮であった者か ? 」
「 その通り。 」牛若丸が答えます。
「 ならば, その刀をよこせ。 」
「 何度も言うが, 欲しくば, 力ずくで奪ってみよ。 」と返す牛若丸。
大長刀を振りかざして襲いかかる弁慶に対して, 牛若丸も太刀を抜いて応戦する。
暫し, 戦いは続いたけど, 牛若丸は清水寺の本堂で願事のお祈りをしたかったので, そこでも, 軽くいなして, 先を急ぎました。
そして, 同時に, 弁慶のような偉丈夫を家来にするのもいいかもしれないと思案を始めていました。
牛若丸と弁慶 最後の決闘
場面は変わって, 清水寺の本堂。
たくさんの人が, お経をあげる中, 弁慶が牛若丸を探して本堂へ入ってきました。
ぐるりと見渡しても, それらしき人物は見当たりませんでした。
それもそのはず, 牛若丸は頭に衣を被り, パッと見にはわからない姿。
しかし, 聞き覚えのある声に引き寄せられていった先にいたのが, 牛若丸。
やはり, 2人は戦う運命に ! !
牛若丸と弁慶の決闘 清水の舞台
これまでは, 適当にあしらっった牛若丸だったけど, ことここに至っては, 決着をつける覚悟を決めます。
そして, 戦いの場は本堂の中から舞台へ移っていきました。
ここでも戦いは牛若丸が優勢。
弁慶が, 刀を振りかざして挑みかかっても, 牛若丸は身軽にひらりとかわしてしまうだけ。
次第に疲れが見え始める弁慶。
ついには, 牛若丸に組伏せられてしまいます。
「 どうだ, 参ったか ! ! 」そして, 続けざまに 「 私の家来になるか ? 」
「 わかった, これも何かの縁だ。 これからは, あなたに仕えよう。 」
ついに, この時, 清水の舞台で, 武蔵坊弁慶は源義経の家来になりました。
『 義経記 ( ぎけいき ) 』は, 源義経とその主従を中心に書いた作者不詳の軍記物語。 全8巻。 南北朝時代から室町時代初期に成立したと考えられている。 能や歌舞伎, 人形浄瑠璃など, 後世の多くの文学作品に影響を与え, 今日の義経やその周辺の人物のイメージの多くは 『 義経記 』 に準拠している。 ( Wikipedia )
牛若丸と弁慶の決闘 五条大橋の件
京都の東と西をつなぐ大動脈が「五条通」。
国道1号線にもなっているから, おそらく京都でも一番交通量が多い通り。
その五条通が河原町通 ( 南北の通り ) と交わるところ。
河原町五条の東側歩道橋を渡るとき, 五条通の中央分離帯にスペースあり。
そこに鎮座しているのが, 「牛若丸と弁慶の決闘の像」。
かなりデフォルメしているから, 決闘の臨場感より, かわいさの方が強調されている (^^)
ほとんどの人が, 「 牛若丸と弁慶の決闘 」 は五条大橋で起こった ! と思っているでしょう。
私もそうでした。
義経記では, 五條天神宮と清水寺だけど, これ程, 五条大橋説が世に広まっているのも何か意味のあることなんでしょう。
ただ, 五条大橋は五条大橋でも, 実は, 今の五条大橋で 「牛若丸と弁慶の決闘」 があったわけじゃありません。
「えっ, じゃあ,どこで ? 」
現在の交通量の多い五条通の一つ北の『松原橋』 でありました。
松原橋から, 南を望む。 向こうに見える橋が, 五条大橋。
このややこしいことを起こしたのは, 豊臣秀吉。
大仏殿や御土居 ( おどい ) の建築, 北野の茶会 ・ 醍醐の花見などなど。
京都のためになることもいっぱいしてきた秀吉なんだけど, 一方で, 京都で数々の無理難題やゴリ押しをしてきたのも事実。
松原橋もそうだけど, 京都では, 良くも悪くも, 秀吉が関係している事が多いですね (^^)
東大寺のより大きな大佛を造ろうと建設を始めた大仏殿が, 「牛若丸と弁慶の決闘」 のミスマッチに繋がってしまいました。
どうゆうことかというと, 方広寺大仏殿を造るときに, 参詣しやすいようにと, 五条松原橋の南に新しく橋を架けました。
橋を架けること自体は何の問題もなし。
その造った橋に”新しい名前”を付ければいいのに, 新設の橋を「五条大橋」としてしまったからややこしいことに。
とばっちりを食らったのが, 本家の「五条松原橋」。
五条が取られて “松原橋” と名前を変えられてしまったんです ! !
権力者は何でもアリですね。
だから, 今の五条大橋は安土桃山時代の前はありませんでした。
なので, 誰でも知っている平安時代後期の “牛若丸と弁慶の決闘” は, 今の松原橋で起こたんです !
牛若丸と弁慶の決闘 まとめ
日本中のほとんどの人が, 牛若丸と弁慶の決闘は,「五条大橋」であったと思っているでしょう。
私も疑いもなく思っていました。
でも, 義経記では, 五條天神宮と清水寺であったんです。 しかも2回も ! !
めっちゃ驚きだった。
ただ, 五条大橋よりも, 清水の舞台での決闘の方が, 場面としては面白いと思う。
絵になるしなー。
でも, なんで, 五条大橋の決闘の方が, 義経記よりメジャーなんだろう ?
歌舞伎の演目の影響かなー。
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